20 白のローブ
――――早く! 早く! 早く!
少年は、襲い来る火の粉にも構わず、全速力で走った。
腕に抱える少女は息をしていない。ただでさえ色白の肌は、完全に血の気を失っている。
それでも心臓は微かに脈打ち、彼女の命が完全には消えていないことを示していた。
医者に連れていくことはできない。この村で唯一の医者は、先ほど走り抜けた道の端で、死体となっていた。
少女の命を救えるのはたった一人しかいない。
灰色の聖女。
村の皆がそう呼ぶ彼女しかいない。
「もうすぐ……もうすぐ連れて行ってやるからな……!」
息を切らしながらも、少年は腕の中の少女に、声をかける。
反応はない。
自分が抱えているのは生きた人間なのか、それとも人形なのか。時折わからなくなるほど、瞳を閉じた少女は動かない。
少年は奥歯を噛みしめた。
一体どうしてこんなことになってしまったのか。
突然のことだった。
何の前触れもなく、空からいくつもの炎の塊が降ってきたのだ。
あっという間に村中が炎に包まれ、そして国王軍の兵士が村になだれ込んできた。
兵士達は村人を見つけると切りつけてきた。
手当たり次第、無差別に。
村中に転がる死体の中には、少年にいつもよくしてくれた、パン屋の主人や、駄菓子屋の老婆の姿もあった。
少年は零れそうになる涙を振り払い、ただひたすら走った。
炎によって赤く照らされた、人々の悲鳴の響きわたる村を抜け、兵士に見つからないように裏手にそびえる雪山へと足を踏み入れる。
雪に足を取られ、走ることはできない。
それでも、必死で前へ前へと突き進む。
木々に遮られ、よくは見えないが、遠くの方で何度か爆発音のような音がして、その度に稲妻のような光が瞬くのが見えた。
間違いない。
彼女はあそこにいる。
きっと誰かと戦っているのだ。
――自分たちを守るために。
少年はさらに足を速めた。
雪に埋もれる足は、もはや感覚がないほど冷え切っている。
あと少し。
あと少しだ。
急に視界が開けた。
森を抜けたのだ。
広がる白い雪原。
そこには、求める少女の姿があった。
少年より、少し年上で、少し背が高い、凛とした少女。
もう大丈夫。
その姿を目にしただけで、そう思える程、信じている存在。
呼びかけようと口を開く。
だが――
黒い光が閃いた。
一筋の暗黒の光がまっすぐに少女へと襲いかかり――――少女の胸を貫いた。
鮮血が飛沫となって宙を舞い、落下して白い雪を赤く染める。
黒い光が消え、少女の体がゆっくりと後ろへ倒れていく。
灰色の髪が前へとなびき、倒れゆく少女の表情を隠す。
それでも、流れる髪の隙間から、微かに唇が動いているのが見えた。
多分、こう言ったんだろうと、後になって考えた。
先生、どうして――――と。
少女が雪の中へ倒れ込む。
起き上がる気配はない。
ぴくりとも動かなかった。
倒れた少女へとゆっくりと近づく人影があった。
翻る白いローブ。
白銀の髪をした若い男。
少年はただその光景を呆然と眺めていた。
目の前で起こったことを、すぐには理解できない。
それでも無意識に、腕の中のもう一人の動かない少女を抱く腕に力を込める。
……アイツ……アイツガ、コロシタ………
少年はゆっくりと少女の体をその場に横たえた。
長い黒髪が、雪の上に広がる。
閉じられた瞼は、雪の冷たさにも震えることはなかった。
もう彼女が再び目覚めることはないだろう。
たった一つの希望が今、奪われたのだから。
あいつが――あいつが――――殺した――――アーシェを――――!
そして、少年は絶叫し、腰の短剣を引き抜くと、駈け出した――――
目が覚めた。
リシェルは寝台の上で、ゆっくりと上半身を起こした。
手を伸ばして、カーテンをさっと開けると、眩しい朝日が一気に差し込み、部屋を明るくした。
晴れ渡った青空を見上げながらも、気分が晴れない。
なんだか、酷く悲しい夢を見た気がする。だが、夢の内容はまったく思い出せない。
(今日は先生について初めて導師会議に出るのに……なんか、不吉……)
リシェルは暗い気持ちを振り払うように、寝台から勢いよく飛び降りた。
着替えようとして、気づく。
テーブルの上に、見慣れぬ折りたたまれた白い布があった。
不審に思って、手に取り広げてみる。
「あ……!」
思わず声を上げていた。
着替えを済ませ、階下に降りると、珍しくシグルトは先に起きており、既に朝食を摂っているところだった。
姿を見せたリシェルに、目を細めて笑う。
「似合ってますよ、リシェル」
リシェルが今まとっているのは、いつもの薄灰色のローブではなく、金糸の装飾を施された、真っ白なローブだ。シグルトがまとう導師のローブに似た作りになっているそれは、導師の一番弟子と正式に認められた者だけが着用を許される、特別なもの。
導師会議への出席にあたって、師が用意してくれていたのだろう。
「先生。ありがとうございます」
師が本当に自分を弟子として扱ってくれるつもりなのだとわかって、嬉しさがこみ上げてくる。
「今日は忙しくなりますからね。しっかり食べておかないと、身体が持ちませんよ」
「はい」
リシェルも席に着き、セイラが出してくれた食事に手をつける。白いローブを汚さないように気を付けると、食べ方がぎこちなくなった。
シグルトはその様子を可笑しそうに見ながら言う。
「今日はまず法院に行って、導師会議。そこで君のお披露目をしてから、王城へ行き、国王陛下に謁見。君を準宮廷魔道士に叙任してもらうことになります」
リシェルは飲んでいたお茶を危うく吹き出しそうになった。
「こ、国王様に会うんですか? 私が?」
「ええ。エテルネル法院は別にヴァ―リス王家に服従しているわけではありませんが、持ちつ持たれつの関係ですからね。友好関係を維持していくために、そういう儀礼的な手続きが色々とあるんですよ」
「なんか……すごく緊張します……」
まさかこの国で最も偉い人間に、自分が会うことになろうとは。
緊張で一気に食欲がなくなる。
「導師の一番弟子ともなれば、今後王族や国のお偉方との関わり合いも増えてきますからね。慣れてもらわないと」
シグルトはこともなげに言う。
ただの魔道士の弟子になるのとは訳が違う。国家最高位の魔道士の、正式な弟子になるのだ。
リシェルは単純に魔道士になれると喜んでいた自分の愚かさを呪った。
「嫌なら別にいいんですよ。魔道士になるのは辞めて、今日の国王との謁見は君と私の結婚報告に変更しても……」
「いえ、頑張ります」
「そうですか。残念ですね。気が変わったらいつでも言って下さい」
シグルトは笑った。
いつもと変わらぬ師の笑顔。
六年間毎日見てきたそれを見つめながら考える。
(先生は本心では、やっぱり私に魔道士になって欲しくないのかな……)
一体前の弟子との間に何があったというのか。あの夜会の日から既に数日が過ぎていたが、結局そのことにはお互い触れることはなかった。
本当は気になって仕方がない。でも、シグルトの方から話してくれるまで待とうと思った。
前の弟子とのことが、師にとって深い心の傷になっているのは間違いない。いくら自分の記憶の手掛かりを得たいからといって、師に辛い想いはさせたくなかった。
「……私の顔に何かついてます?」
「あ、いえ」
弟子の凝視に、シグルトが訝しげに問う。リシェルはごまかすように食事を慌ててかきこんだ。
そんな弟子を、師は複雑そうな表情で見つめていた。
食事を終え法院に到着すると、待っていたのは魔道士たちの驚愕の表情とざわめきだった。
すれ違う魔道士たちは皆、リシェルのまとう白いローブを見て、顔色を変えた。
目を丸くする者、ぽかんと口を開けて佇む者、あからさまに眉をひそめる者、同伴者とひそひそと会話をする者……反応に違いはあれど、すべて好意的なものではないことは確かだ。
彼らが自分に向けてくる、今まで以上に冷たく、刺すような憎悪の眼差しに、リシェルは自然とうつむいた。白いローブをぎゅっと握りしめる。
導師の一番弟子であり、その後継者たる者の証。
これを自分がまとうことで、周囲にどんな反応があるかなんて、わかっていたはずだった。
「……リシェル。前を向きなさい」
前を歩くシグルトが振り返らないまま言った。
「誰がなんと言おうと、君は私のたった一人の可愛い弟子です。何も恥じることなんてない」
「……はい」
リシェルは、ただもう目の前で翻る濃紺のローブだけを見て、まっすぐ歩くことだけに集中した。
(……強くならなきゃ)
必死で自分に言い聞かせる。
ようやく、一歩を踏み出せたのだから。
導師会議が行われる場所へと向かう途中、中庭を囲む回廊に並ぶ部屋の一つの前で、シグルトは足を止めた。
「ああ、そうだ。ちょっと用事を思い出しました。ここで待っていて下さい。すぐ戻りますから」
シグルトはそう言い残し、部屋の中へ消えていく。
一人扉の前に残されたリシェルは、師を待つ間、回廊に佇み、目の前にある広い中庭をぼんやり眺めた。
相変わらず、大陸中から集められた、色とりどりの花が咲き乱れている。
中ほどにある、それなりに深さのありそうな池の水面が、日の光を受けてきらきらと光っていた。
平和で美しい光景に、しばし見とれる。
「……まったく、シグルト様も何考えてるんだか」
突然聞こえてきた声に、びくりと身を竦ませた。
後ろの方、廊下の隅で、魔道士二人が話していた。内緒話でもするように身を寄せ合って話しているが、その声ははっきりしたもので、明らかにリシェルに聞こえるように意識しているのが分かった。
「まさかほんとに魔法の使えない奴を正式に弟子にするなんてな」
「まあ、シグルト様たぶらかすなんて、ある意味魔女だけど」
「我が国が誇る大魔道士も、女に溺れて職権乱用するようじゃ案外たいしたことなかったな。俺憧れてたのにな~。がっかりだ」
「法院を率いるべき立場の人間があれじゃ、規律が乱れるし辞めてもらったほうがいいかもな」
可笑しそうに、嘲るように話される言葉が耳に入って、心を傷つけていく。
自分が悪く言われるのはいい。でも、師が悪く言われるのは耐えられなかった。
(だけど――――)
果たして自分に彼らを非難する権利があるだろうか。
彼らの言っていることはある意味事実だ。
別にたぶらかして弟子になったわけではないにしろ、シグルトが自分のような人間を弟子にしてくれたのは、リシェルに対して特別な感情があるからだ。
そのおかげで、実力もないのに導師の弟子という、魔道士なら誰もが憧れる地位を手に入れた。
やり場のない怒りと悔しさは、自己嫌悪へと向かう。
強くなる。そう誓ったばかりなのに、心が折れそうになる。
その時――――
「おいお前ら、文句があるならシグルト様に直接言えよ」
聞き覚えのある声に、リシェルははっと顔を上げた。
「パ、パリス様……」
シグルトの蔭口を言っていた二人組は、現れた自分たちより年下の少年魔道士に動揺を隠せない。
紺青の髪の少年がまとうのは、リシェルと同じ白のローブ。
「そ、それは……」
「なんだ、言えないのか? 僕なんか真っ向から進言したぞ。こんな奴弟子にすべきじゃないって。殺されかけたけどな……」
パリスはローブの襟元を緩めて見せた。
現れた白い首筋には、はっきりと細く残る、締め上げられた跡。
二人の魔道士の顔が見る間に青ざめる。
「なんなら僕が今のお前たちの言葉、伝えておいてやるけど?」
「い、いえ、結構です! 失礼いたしました!」
二人組は逃げるようにその場を去って行った。
「……ったく、下級は余計なこと言ってないで黙って修行だけやってろっつーの」
不快そうに舌打ちしながら呟くパリスを、リシェルは首を傾げて見た。
(今の……もしかして、庇ってくれた……?)
「あの……ありがとう……」
真意はわからないが、とりあえず礼を言う。だが、パリスはじろりとリシェルを睨んでくる。
「お前、シグルト様が悪く言われてるんだぞ? 何か言い返せよ!」
「う、うん……ごめんなさい……」
(なんで謝ってるんだろう、私……)
先日の一件を考えれば、パリスの方こそリシェルに謝るべきだと思うのだが。
そんな内心の想いが顔に出ていたのだろうか。
不意にパリスが目をそらし、下を向くともごもごと何事が呟いた。
「あの、さ……この間の……ことだけど……った」
「え?」
声が小さすぎてよく聞き取れない。
「……かった」
「え、何?」
「……るかった」
「ごめん、よく聞こえな……」
「だから! この間のことは悪かったって言ってるんだよ! 何度も言わせるな!」
突然パリスが大声で怒鳴った。
(な、なぜ逆ギレ……?)
目を白黒させているリシェルに、パリスは大声を出してしまったことがさすがに気まずいのか、ばつが悪そうな顔で続ける。
「……お前が魔法が使えないのは、シグルト様のお考えで、修行させてないからだって、ブラン様から聞いた。弟子なのに修行させないなんて、ますますおかしな噂が立つから周りには言うなって言われたけど。僕、お前のことずっと、努力も才能も足りない奴だって、思ってて、それで……知らなくて色々言って悪かった」
(謝ってくれてる……? パリスが……?)
意外すぎて、急に可笑さがこみ上げ、思わず噴き出した。
「……おい、人が真面目に謝ってるのに、なんで笑うんだよ?」
目を吊り上げて問うパリスに、慌てて首を横に振る。
「あ、ごめんなさい。ただ、あなたが謝ってくれるなんて思わなかったから……」
「人をなんだと思ってるんだよ?」
「えっと、今は悪い人じゃないのかなって思ってる」
リシェルのもうすっかり敵意も警戒心もない答えに、パリスが心底呆れた様子で言った。
「お前……あんな目にあったのに謝られたくらいでそう思えるって、どれだけお人好しなんだよ」
「う~ん、ブラン様程ではないかも……」
リシェルの言葉に、パリスは少し笑った。
いつもの人を嘲るような笑みではなく、ただ可笑しいから笑った。そんな笑顔。
(なんだ、こういう笑い方もできるんじゃない……)
考えてみれば、あのブランが弟子に選んだ人間なのだ。
多少我儘で傲慢なところがあるにしろ、きっと根は悪くないのだろう。
「まあ、お人好しで言ったら、あの人の右に出る奴はいないからな」
師について語るパリスの声には、以前のような師を厭うような響きは全くなかった。
その毒気のない様子に、今までずっとパリスに対して抱いていた苦手意識が、消えていく。
(あのこと、聞いてみようかな……)
シグルトに対してはぶつけられない問い。今のパリスなら答えてくれるような気がした。
「あのね、実は聞きたいことが――――」
リシェルが言いかけた、その時――――
ぼちゃん
何かが水に落ちる音に、二人は中庭の方を振り返った。
見たところ10歳くらいの男の子が、池を囲む石の上に立ち、水の中を覗き込んでいた。
何に掴まるでもなく、後ろで手を組み、池に身を乗り出している。
少しでも足を滑らせたら、落ちてしまうだろう。
あの池は見た目よりもずっと深いはずだ。
「危ない!」
とっさにリシェルは駈け出していた。
「あ! おい待て! あれは……!」
パリスが何か言っているのが聞こえたが、リシェルは無視して中庭へと飛び出した。
新章突入です。
ついでに今まで投稿した分の誤字脱字、表現などを修正しました。
見直してみると結構あるわあるわ…
気をつけてるつもりなんですけどね^^;
おかしなところがありましたらご指摘いただけると幸いです。