18 師匠
「先生……」
安堵と不安の入り混じった声で呼びかけると、シグルトはリシェルへ視線を移した。
「勝手に私の傍から離れちゃ駄目だって、言ったでしょう?」
シグルトは呆れたように言って、リシェルに近づく。
ぱさり、とリシェルの手を縛っていた縄が勝手に解けた。これもシグルトの魔法だろうか。
赤くなった両手首をさすっていると、シグルトがリシェルの前に膝をついた。
紫の瞳が心配そうに覗きこんでくる。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
「大丈夫です……」
シグルトは安心したように微笑んで、自分の上着を脱ぐと、リシェルの肩にそっとかけてくれた。
「怖かったでしょう? 来るのが遅くなってしまってすみませんでした」
リシェルは黙って首を横に振った。あまりにも色々なことがありすぎて、言葉がうまく出て来ない。
シグルトが掛けてくれた上着をぎゅっと握りしめる。その温かなぬくもりに、もう大丈夫なんだという実感が湧いた。
シグルトはそんなリシェルの頭を落ち着かせるように優しく撫でた後、立ち上がり、呆然と固まっているパリスへ向き直る。
「さて……」
そこには、いつもと変わらない微笑みがあった。
しかし、リシェルに向けていた時とは明らかに違う、“何か”を感じて、パリスは震えあがった。
「痛い! 痛い! た、助けてくれ~」
シグルトの足元ではロドムが折れた腕を抱えて、見苦しく喚いている。そんな彼をシグルトは疎ましそうに見下ろした。
「騒がしい人ですね。それくらいで済んでよかったじゃないですか。腕、切り飛ばすことも出来たんですよ。でも、この子にあなたの汚らわしい血がかかったら嫌ですからね。折るだけにしておいたんです」
淡々と語るシグルトの言葉に、ロドムは激痛を訴えるのをぴたりとやめた。痛みより、今目の前にいる男への恐怖が勝った。
「そうそう、少し静かにしていて下さいね。でないと、口も聞けなくなりますよ?」
満足げに言って、シグルトは再びパリスへ顔を向ける。
「シ、シグルト様……どうしてここが……?」
問うパリスの声は、懸命に抑えてはいるが、震えていた。
「君のおかげで、作りたくもない借りができてしまいましたよ」
シグルトは苦笑する。
パリスにはどうしてシグルトがこの場所を突き止められたのか、まったく見当がつかなかった。自分の結界は完璧だった。通常の探知の術では絶対に探し出せないはずだ。
それに、先程ロドムの腕を折った術。シグルトはなんでもないことのようにやってのけたが、それが相当難しい技であることは魔道士なら誰でもわかる。並の魔道士が同じことをしようとすれば、術の使用に伴って発生する魔力の余波を抑えられずに、ロドムのすぐ近くにいたリシェルまで傷つけることになっていたはずだ。だが、シグルトはリシェルには傷一つ負わせず、正確にロドムの腕だけを狙ってへし折った。
「シグルト様、やっぱりあなたはすごい……」
ずっと憧れ続けた、最強の魔道士の力を目の当たりにして、パリスは思わず呟いていた。
だが、こんな状況でも自分を称賛してくる少年に向けられるシグルトの眼差しは、どこまでも冷ややかだ。
「いくら誉めてもらっても、君を許す気にはなれませんね」
紫の瞳に気圧されて、パリスは一歩後ずさる。
「パリス君。以前君には言いましたよね? 私にとってリシェルは特別な存在だ、と。それを知りながら、君は私からあの子を奪おうとした。私にとって、何より大切なあの子を」
その言葉は、安堵で少し落ち着きを取り戻しつつあったリシェルの心臓の鼓動を再び速めさせた。シグルトが他人に自分のことをこんな風に語るのを聞くのは初めてだった。
(特別な存在……)
こんな時なのに、頬が熱くなる。
だが、同じ言葉はパリスに怒りをもたらした。
「どうして……? どうしてそいつなんです……?」
恐怖とともに、怒りが彼の声を震わす。
「僕にとっては、あなたこそ特別なのに……どうして僕を選んでくださらなかったのです?」
「……気持ち悪いこと言わないで下さいよ」
愛の告白にも似た恨み言に、シグルトの顔が嫌そうに引きつった。パリスは構わず続ける。
「シグルト様、僕の伯父、ラスコー将軍を覚えていらっしゃいますか? 8年前、隣国レグリントとの戦いで戦死した……」
シグルトは覚えているのかいないのか、無反応だ。
「ヴァ―リス軍最強の将軍。そう呼ばれていた伯父は僕にとって、憧れの存在でした。いつか伯父のようになるのが夢であり、僕の目標だったんです。でも、絶対に誰にも負けない。そう信じていた伯父はレグリント軍との争いで敗れ、あっけなく死んでしまった……当時、大陸でもっとも強い軍隊を持つといわれたレグリントには、伯父も勝てなかったのです……」
パリスはまっすぐにシグルトを見た。
「その数カ月後です。シグルト様、あなたがレグリント軍を打ち破ったのは。圧倒的に数で勝る敵軍を下せたのは、あなたの並はずれた魔力のおかげだった。あなたはたった一人で敵軍の主力部隊のほとんどを壊滅に追いやった。伯父にもできなかったことを、あなたはあっさり成し遂げた……その時から、あなたは僕の目標になりました」
パリスの話を、シグルトは興味があるのかないのか、無表情に黙って聞いている。
「僕はただ、あなたに憧れて……認めて貰いたくて……ずっと頑張ってきたんです。あなただけを目標に……なのに……なのに、どうしてこんな奴を弟子にしたんです? 才能も、実力も、想いも、僕の方がずっと上なのに……僕の方がこんな奴より、あなたの弟子に相応しいはずです」
パリスにじろりと睨まれ、リシェルは身を竦ませた。
「なるほど。君は死んでしまった伯父さんへの憧れを、勝手に私に向けたわけだ。その挙句にリシェルに嫉妬ですか……いい迷惑です」
パリスが精一杯語った気持ちを、シグルトは同情も共感もすることなく、ばっさりと切り捨てた。
「……いいでしょう。それほどまでに弟子になりたい、というのなら、君を私の弟子にしてもいい」
シグルトが口元に不敵な笑いを浮かぶ。
「ただし、君が私に勝てたら、ですが」
パリスは目を見開いた。
「そ、そんなの無理に決まってるじゃないですか……!」
自分には才能があると思っている。だが、最強の魔道士に勝てると思うほど、自惚れてはいない。
「おや? 君は私の弟子に相応しい実力の持ち主なのでしょう? それをここで証明して下さいよ」
シグルトはゆっくりと片手を持ち上げ、パリスへ向ける。
魔力の発生を感じて、パリスは怯え、後ずさった。
「無理です! あのアーシェでもあなたには――――!」
叫びが終わらぬうちに、シグルトの手がゆっくりと空を握った。
「んぐあっ!?」
パリスの喉から蛙が潰れたような声が漏れた。
喉が圧迫される。まるで不可視の紐で首を締め上げられているかのようだ。反射的に喉に手をやるが、触れられるのは自分の首だけ。
「どうしました? いいんですよ。抵抗して。君の力を見せて下さい。でないと、君――――ここで死にますよ?」
首を締める圧力はどんどん強くなっていく。
息ができない。
抵抗しようにも、術を使うために集中することなどできるはずもない。
視界がぼやけていく。
それでも気配で、シグルトがくすっと笑ったのがわかった。
「まあ、君が全力を見せてくれても、結果は変わりませんが」
(ああ、そういうことか……)
君よりリシェルの方がはるかに強い――――
パリスは仕立て屋でのシグルトの言葉の意味を理解した。
リシェルに危害を加えるものがいれば、シグルトはその者に制裁を加える。
おそらくは、自らに直接攻撃された時よりも、容赦なく。
最強の魔道士に、その力を惜しげもなく振るわせる唯一の存在。
その意味で、リシェルはパリスより強い。
あれは、シグルトの自分への警告だったのだ――――
だが、いまさら気づいても遅い。
「……!」
首を締め上げる力はいよいよ強くなっていく。息が、出来ない。
恐怖を感じながらも、パリスは覚悟した。
(……僕はここで死ぬ……)
ずっと憧れ続けた存在の手にかかって。
ぼんやりした頭で、同じくかつて憧れた、灰色の髪の少女のことを考える。
(……アーシェは……どんな気持ちだったんだろう……)
「先生やめて!」
リシェルが叫んだ。
その声に、圧力が弱まる。
と、次の瞬間、一気に首を締め上げていた力が失われ、パリスは膝から床に崩れ落ちた。
上半身が床に倒れこむ前に、太い男の腕がそれを支えた。
「……! ブラン様……」
パリスが擦れた声で、師の名前を呼んだ。
同時に、一気に肺に空気が入り込み、激しくむせる。
「しゃべるな。いいか、ゆっくり息しろ」
言いながらブランはパリスの背中を撫でさすってやる。その手はほんのり緑色の輝きを放っていた。
パリスの乱れた呼吸が徐々に整っていく。
「ようやく到着ですか。随分遅かったですね」
シグルトは先程まで他人の首を締め上げていたとは思えないほど、平然とした様子で言った。
「お前が早すぎるんだよ」
ブランはパリスの呼吸が正常に戻ったのを確認すると、弟子をかばうようにシグルトの前に立った。
「シグルト、頼む。見逃してやってくれ。この通りだ」
ブランはシグルトに向かって頭を下げる。
「それはまた随分虫のいい話ですねぇ」
「わかってる。わかってて、頼んでるんだ」
「――――嫌だ、と言ったら?」
「……」
ブランは緊張した面持ちながらも、決意を宿した赤い瞳で、真正面からシグルトを見据えた。
「……お前がリシェルを守る様に、俺も師匠としてこいつを守る」
思いがけぬブランの言葉に、パリスは驚いて自分を庇う師の大きな背中を見上げた。
「そうですか。君ならわかってると思いますが、私は友人だからといって手加減はしませんよ?」
シグルトの手が再び前へと向けられる。
ブランは足を滑らせ肩幅まで開くと、両手を構える。
その額には、遠目でもはっきり分かるほどの冷や汗が浮いていた。
空気がぴりぴりと張り詰める。
緊張が極限まで高まり――――
突然、リシェルが立ち上がり、駆け寄ってシグルトの腕に抱きついた。
「リシェル?」
「先生、もういいです。帰りましょう?」
リシェルは師を見上げて、懇願するように言った。
シグルトは眉を寄せた。
「何言ってるんです? 君をこんな目にあわせた人間を放っておくことはできません」
「いいんです。無事だったんですから……」
「許すっていうんですか?」
「それは……すごく怖かったし、彼がやろうとしたことは許せないけど……」
「なら」
「私は先生とブラン様が争うのなんて……先生が誰かを傷つけるのなんて、見たくありません」
リシェルは、もうブランたちの方を向かせまいとするかのように、シグルトの腕を握る力を強めた。
「帰りましょう? ね?」
「……」
シグルトはしばらく険しい顔でリシェルを見つめていたが、やがてふっと笑ってから、ブランに向けていた手を下した。
「私としてはパリス君を再起不能になるまで傷めつけないと気が済まないんですけど……まあ、君に嫌われたくはないですからね」
張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
ブランは再び、さっきより深く、頭を下げた。
「リシェル。すまん、本当にすまん。恩に着る」
「ほんとに君、彼を弟子にしてから頭下げっぱなしですね」
シグルトが苦笑しながら友に同情する。
「……パリス君。2度目はないですよ?」
シグルトに釘を刺され、パリスの肩がびくりと震える。
「じゃあ、ブラン。後は君に任せます。こちらから王都警備隊に通報はしません。君がしかるべく事後処理をして下さい」
「わかった。お前らにこれ以上迷惑はかけない」
「頼みますよ。パリス君は初犯で未遂としても、そっちの人は調べれば色々出てきそうな顔してますから」
シグルトがちらりと部屋の隅で存在を消しうずくまっているロドムを見やると、ロドムはひっと小さく悲鳴を上げ、ますます縮こまった。
「さ、行きましょうか」
シグルトに背を押され、リシェルは部屋の扉へと向かった。
だが、部屋を出る前に、リシェルは立ち止り、振り返った。
床に座り込み、呆然としているパリスに向かって口を開く。
「ブラン様は……シグルト先生よりずっと、いい師匠だと思う」
「あの……リシェル?」
師の呼びかけは無視して続ける。
「だって、先生って女の子向けの恋愛小説ばっかり読んで、夜更かしして寝坊して、いつも会議に遅れそうになるし、仕事はしょっちゅうサボるし、国のために働こうとかそういう気概もまるでなくて、正直給料泥棒だし、術だって全然教えてくれないし」
「こらこら、なんてこと言うんですか、この弟子は」
シグルトは不服そうな顔だが、具体的に反論はしてこない。事実だけに否定はできないのだろう。
「だから、私はブラン様の弟子になれたあなたが羨ましいくらい」
パリスは気が抜けた様子で、黙ってぼんやりとリシェルを見ている。
「……それだけ」
リシェルは少し気まずそうに眼をそらすと、そのままシグルトとともに部屋を出て行った。
二人が去ると、ブランは黙ってパリスに手を差し出す。パリスがその手を握ると、まだ少しふらつく弟子を立たせてやる。
パリスは目の前に立つ大柄な師を見上げた。その表情は当然ながら、厳しいものだった。
(もう、何もかも終わりだ……)
シグルトに命こそ取られなかったが、おそらく自分はブランに破門にされ、法院からも追放されるだろう。
法院から追放されてしまったら、導師になることはもちろん、もう魔道士としての成功は望めない。
そうなれば、自分が法院で権力を握ることを期待している父、ユーメント公爵は烈火のごとく怒るだろう。家も勘当されるかもしれない。
本当に、何もかも失うのだ。
自分の犯した、愚かな行為のせいで。
だが、そのおかげでようやく気づくことができた。
馬鹿にし続けた自分の師が、リシェルの言うとおり、“いい師匠”だったことに。
魔道士としての腕では確かにシグルトに劣るかもしれない。
だが、あの最強の魔道士の圧倒的な威圧感を前にして、自分は恐怖で何一つできなかったというのに、師はそんな自分を守るため、シグルトの前に立ち塞がってくれた。
自分なんかより、ずっとずっと強い人なのだ――――
たとえ許されなくても、せめて最後くらい今までのことをきちんと謝ろう。
パリスがそう決意し、自分を見下ろす師に向かって口を開こうとした、その時――――
ばごっ!!
突然顔面に衝撃を受け、パリスは後方へ吹っ飛ばされた。
後ろの壁に背中から激突する。
激しい痛みに顔に手をやれば、ぬるぬるとしたものに触れた。恐る恐る手を見ると、血がべっとり付いていた。
もしパリスが自分の鏡を見ることができたなら、無様に鼻から血を垂れ流す自らの姿を目にして、その場で卒倒していただろう。
「馬鹿野郎っ!!」
ブランの聞いたことがないほど大きな怒鳴り声が、パリスの身を震わせる。
見かけによらずいつも穏やかで、どれだけ無礼な態度を取っても、不快な表情ひとつ見せなかったブランが、ここまで大きな声を上げるのは初めてだった。
「お前のせいでシグルトに借りができちまっただろーが! あいつ、これからずっと俺に仕事押し付けてくるぞ。毎日残業だ。家に帰れると思うなよ」
「……僕は……破門ではないのですか……?」
恐る恐る問うと、ブランはますます表情を険しくする。
「馬鹿。俺は何があっても破門はしない、最後まできっちり面倒みるって、弟子入りの時言っただろうが。本当お前、俺の話まったく聞いてないんだな」
「なんで……? なんでですか……?」
てっきり弟子を辞めさせられるものと思っていたし、それが当然だとも思っていた。
「お前……猫好きだろう」
ブランが表情を少し緩めて言った。
「お前、法院の猫たちに毎日こっそりエサやってるだろ? リシェルに頼まれて怪我した子猫を治した時もそうだろ?」
「なんでそれを……」
「リシェルから聞いた。“お礼をしたいけど、私はすごく嫌われてるみたいなので、ブラン様の評価がよくなるようにこっそりお知らせしておきます”だってさ」
ブランがにいっと笑った。
「猫好きに悪い人間はいないからな」
大きな手が、パリスの紺青の髪をくしゃくしゃっと撫でる。
「お前はこれから俺が今まで以上に、びしばし鍛えてやるから覚悟しろよ。いいな?」
不意に――――
師の顔が歪んだ。
パリスはとっさに下を向いてその原因を隠そうとした。
だが、それは次から次へ溢れてきて、止まらない。
ぽたぽたと落下し、床にシミを作る。
同時に、嗚咽が漏れる。
師は弟子の頭をぽんぽんと軽く叩いてから、困ったように笑った。
「お前、とりあえず顔拭け。涙と鼻血でひどい顔してるぞ?」