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105/106

105 目撃

 静かな室内に、ペンを走らせる音と紙をめくる音が響く。リシェルは、執務机を前に、今日も真面目に書類の山と格闘する師のそばに行って声をかけた。


 「先生、これ、昨日持ってくるように仰っていたマルテ地方支部の予算案の詳細です」


「ああ、ありがとうございます」


 紙の束を両手で差し出した時、受け取ろうとしたシグルトの指先がリシェルの手に軽く触れた。

 

「あ……!」


 思わず反射的に手を引っ込めてしまう。一瞬にして気まずい空気が流れる。


「……すみません」


「わ、私こそ」


 受け取ろうとした手を宙に浮かせたまま、申し訳無さそうに謝るシグルトに、罪悪感が込み上げてくる。今度はちゃんと書類を渡すと、


「私、署名が終わった書類、届けてきますね」


 それだけ言って、逃げるように執務室を後にした。



 


 リシェルが法院に戻ってから、早くも四日目。シグルトと二人きりでいることにも慣れ、仕事こそ普通にこなしているが、シグルトとの間にあるわだかまりが消えたわけではない。

 

 お互い深い話を避けていることもあるが、単純に忙しく、ゆっくり話をする時間もなかった。日々、仕事に追われ、ただ慌ただしく過ぎていく。


 法院に戻ってから、リシェルは行く先々で魔道士たちから歓迎を受けた。シグルトが仕事をさぼっていたせいで困っていたのは、彼が管轄する月の塔だけでなく、他の塔の魔道士たちも同じだったようだ。ようやく仕事を進められると、皆喜び、礼を言ってくれる。

たいしたことはしていないとはいえ、こうして感謝されるのは嬉しい。相手が今まで自分を嫌ってきた魔道士たちだけに、なおさらだ。リシェルだって、できれば彼らと仲良くしたいとずっと思っていたのだから。


 リシェルの帰りを喜んでくれた彼らだが、中にはこの先のことを考えて心配する者もいた。 


「リシェル様がご結婚後に法院にいらっしゃらなくなったら、シグルト様はきちんと働いてくださるのでしょうか……?」


 魔道士の一人に不安げに問われ、リシェルは曖昧に笑うしかなかった。あの怠惰たいだな師匠が、自分なしで真面目に働くとは思えなかった。今はただ、リシェルへの負い目と、気まずさを紛らわすために、仕事に集中しているだけなのだ。


(私が、いなくなったら……)


 リシェルが、エリックの元へ行くことを選んだら……

 シグルトはどうするだろう。


 嘆き悲しみ、ただ無気力になってリシェルを諦めるだろうか。

 嫉妬し怒り、なんとしてもリシェルを連れ戻そうとするだろうか。


 気づけばもう、明日はもうエリックとの約束の日だ。シグルトの元へ戻るか、エリックの元へ行くか。決めなければならない。


 だが、未だに答えは出ないまま。シグルトとも、この先についての話は一切していない。仕事のために普通に言葉を交わしているとはいえ、どこかぎこちなく、互いに深く踏み込むことに、遠慮と怯えがあった。


 シグルトと向き合い、そして自分にとって彼がどういう存在か、知らなければ。そう思ってここへ来たのに。


(先生とちゃんと話さなきゃ……)


 だが、何を話せばいいのだろう。これからのことか。過去の思い出話か。はたまたリシェルへの想いを聞けばいいのか。


 どうしたら自分は、六年前からずっとそばにいてくれたシグルトという存在の、明確な意味を知ることが出来るのだろう。

 

 物思いにふけりながら月の塔へと戻る途中、ふと講堂がある建物が目に入った。屋根や壁、窓の部分が一部破損しており、入口には立入禁止の札がぶら下がっている。ルーバスが起こした事件については、導師たち以外には伏せられているらしく、法院内の魔道士たちはただいさかいがあり、そのとばっちりで講堂が壊されたとしか説明されていないらしい。ルーバスの死もあり、様々な憶測が飛び交ってはいるようだが、リシェルやパリスが関わっていたことも知られておらず、その件で何か聞かれることもなかった。


 あの日……ルーバスについていかなければ、リシェルは自らに施された魔力の封印も、シグルトの嘘も知ることはなかった。そして……自分のエリックへの気持ちも。


 今頃は魔道士になることに未練を残しつつ、近づいてくる結婚式に夫婦になるのだというこそばゆい気持ちと緊張を抱えながら、シグルトのそばで笑っていただろう。何一つ彼を疑うことなく。彼に自分の知らない一面があることなど知りもせずに。


(その方が……幸せだったのかもしれない)


「あら、小鳥ちゃんじゃない」


 リシェルの思考は、聞き覚えのある女の声で中断された。


「ロゼンダ導師」


 振り返り、そばに佇む濃紺のローブをまとった、赤紫の髪の美女の姿を認めて、体が緊張で一気に固くなる。それを無理やり動かし、リシェルはぎこちなく頭を垂れた。


「しばらく見ないから、もう法院には来ないと思ってたのだけど。やっぱりあの事件が原因かしら? あなたも大変だったわね」


 ロゼンダはその切れ長の目で、壊れた講堂を見やりながら言う。彼女も導師として当然事情は把握しているのだろう。


「婚約者がこんなに可愛らしいと、他の男が寄ってきて、シグルトも気が気じゃないわね」

 

「い、いえ……」


 赤く塗られた爪先で口元を覆いながら、おかしそうに笑うロゼンダに、どう答えていいかわからず、リシェルは小さな声を震わせた。どうにも彼女を前にすると居心地が悪くなる。自分でもよくわからなかったが、それは多分相手が導師だから、自分が人見知りだから……といった理由ではない。


「これからシグルトのところへ戻るのかしら?」


「はい」


「そう……実は私もシグルトに大事な話があってね。ちょっとお願いしてもいいかしら?」


 相手は導師であり、断れるはずもない。すっかり萎縮いしゅくして一も二もなく頷いた少女を見て、ロゼンダは赤い唇の両端を吊り上げ、どこか妖しく笑った。


 

 



 かちゃり、と部屋の扉が開く音がして、シグルトは書類にペンを走らせる手を止めずに口を開いた。


「リシェル、随分早かったですね。すみません。こっちはまだ次のが片づいてなーー」

 

 言いながら顔を上げ、そこに立つ人物が弟子でないとわかると、途端に眉をひそめる。


「……何のご用でしょう?」


「別に。ちょっとおしゃべりしに来ただけよ」


 扉に立っていたのは、ロゼンダだった。 


「忙しいんです。帰っていただけませんか?」


「つれないわね。ちょっとくらいいいじゃない」


 部屋の主の拒否も無視して、ロゼンダは室内に入ると、つかつかと執務机の椅子に座るシグルトの横まで歩み寄った。白いしなやかな手が革張りの椅子の背もたれにかかり、からかうような微笑がシグルトを見下ろす。


「もうすぐ結婚式ね。……ねぇ、あなたたち、本当に結婚するの? 小鳥ちゃん、毎日あなたとじゃなく、ガーム導師のお孫ちゃんと一緒に帰っていくようだけれど? 家に帰っていないんじゃないの? もしかして、うまくいっていないのかしら?」


「……あなたには関係ないでしょう」


「そうね。関係ないわ。ただ、今なら私のお願いを聞いてくれるかと思って」


 ロゼンダは身をかがめ、自身を疎ましげに見上げるシグルトに、息がかかるほど顔を近づけ、艷やかに微笑む。


「ねぇ……最後にもう一度だけ、してくれない?」


「……は?」


 甘ったるいささやきに、シグルトの眉間のしわがさらに深くなった。


「お断りします。私も今はあなたと同じ、導師です。あの頃とは違う。もうあなたに従う理由はありません」


 即答し、わずらわしそうにロゼンダから顔を背ける。不快さを隠そうともしないその表情と態度にも、ロゼンダは笑みを崩さなかった。


「冷たいわね。じゃあ、可愛い婚約者さんに私とのこと全部話してしまおうかしら? 知ったらあの子、どんな顔するかしらね? 真面目そうな子だから、あなたのこと軽蔑するかも。今関係が微妙なら、振られちゃうかもしれないわね」


「……」


 シグルトは黙って、横に立つ女を冷たくにらみつけた。だが、ロゼンダは怯むこともなく、心底愉快そうに笑っている。


「ふふ、怖い顔。本気で私のこと殺しそうね。いいわ。殺されたくはないから、おまけしてあげる」


 すっと赤紫の瞳が細まり、妖しく光る。


「キスして。今、ここで。それで我慢してあげるわ。あの子には何も言わないし、あなたのことももう二度と誘ったりしない」


「……」


「いいじゃないの、キスくらい」


 シグルトの瞳にわずかに迷いが生まれた。


「……本当でしょうね?」


 疑わしげな視線を、ロゼンダは余裕で受け止める。


「もちろん。嘘だったら私を殺していいわよ?」


 シグルトは大きくため息を吐くと、立ち上がり、ロゼンダへと向き直った。うんざりした顔で、嫌悪感をあらわにしながらも、少し身を屈める。その唇が目の前の相手のものに軽く触れた。が、即座にシグルトは身を起こし、離れる。


「さあ、もういいでしょう。さっさと帰っ――」


 逃さないとばかりに素早く、その首に女の両腕が回された。絡みつく腕に、シグルトの体が前に傾いだ。再び唇が触れ、塞がれる。ロゼンダからの口づけはシグルトの淡白なものとは反対に、情熱的というよりは、粘着質で執拗しつようなものだった。


 シグルトは諦めたように、されるがままになっていた。時折女の唇から漏れる官能的な甘い吐息にも、無反応なまま。


 長い口づけの後、ようやくロゼンダが唇を離すと、シグルトは冷え切った眼差しで、今まで唇を重ねていた相手を見下ろした。軽蔑と嫌悪を目一杯込めて。


「……これで満足ですか?」


「ええ、とっても。今までで一番、ね」


 ロゼンダは赤さを増した、ぬめりと光る唇で孤を描きながら、意味ありげにちらりと部屋の扉の方を見やった。

 

 シグルトもつられて、同じ方へ目をやり――その顔が一気に青ざめる。


「リ、リシェル……?」


 扉は半開きになっており、そこに立っていたのは、呆然と立ちすくむ彼の婚約者だった。

 

「あ、あの……私……ロゼンダ導師の……お忘れになった資料を……持って……その……」


 少女の顔は蒼白で、か細い声も、紙の束を持つその手も震えていた。


「あら、ちゃんと持ってきてくれたのね。ありがとう」


 わざとらしい女の声に、リシェルの中で何かがぱちんと弾け、砕けた。手から紙の束が滑り落ち、ばらばらと絨毯じゅうたんの上へ散っていく。


「し、失礼いたしました……!」


 それだけ言い残し、リシェルはばっと駆け出し、その場から逃げ去った。


「リシェル! 待って……!」

 

 シグルトは自身の首から女の両腕を引きがすと、ロゼンダを押しのけ、急いで部屋の外へ向かう。


「ふふ、ごめんなさいね。扉、閉め忘れていたわ」


 シグルトは一瞬振り返り、射殺さんばかりにロゼンダを睨みつけた。だがすぐに、床に散らばった書類を踏み越え、弟子を追う。


 その背を見送る女の顔には、満足げで嗜虐しぎゃく的な笑みが浮かんでいた。

 

2週分間が空いてしまいましたが、更新しました!

お読みいただきありがとうございます。


年末に向け慌ただしくなってきましたので、次話で今年の更新は最後かもしれません。

そのあとは、この章の終わりまで書いてから、まとめて更新しようか、迷い中です。

(この次の章で完結する予定です)


よろしくお願いします。

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