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104 パリスの決断

「おはようございます」


 翌日の朝、リシェルが挨拶をすると、執務室に入ってきたシグルトは目を見張った。


「え? あ、おはよう……ございます。……今日も来てくれたんですね、リシェル」


 意外そうに言った後、気遣うように続ける。


「……無理しなくていいんですよ」

 

「仕事、ですから……」


 リシェルが手にした書類に目を落としながら、言い訳のように答えると、シグルトは苦笑した。


「君は真面目ですね。仕事なんて無理してやらなくても、誰かがやってくれたり、うやむやになったり、意外となんとかなるものなのに」


「先生はもう少し真面目になられた方がいいと思います。今までなんとかなってきたのは主にブラン様のおかげです」


 あまりにもいい加減な発言に、思わず顔を上げ、ついいつもの調子で返すと、細められた紫の瞳と視線がかち合った。


「そうですね。ブランと……君のおかげですね。仕事なんてしたくないけど、君に頼まれると断れませんから」


 微笑みながら言われ、リシェルは気恥ずかしくなって再び目をそらした。穏やかで柔らかな、愛おしげな眼差し。こんな風に見つめられるのは久しぶりな気がした。ルーバスの一件以来、シグルトの目には、自分への異様な執着とほの暗い狂気がにじんでるように見えていたから。


 今はまるで以前の彼にすっかり戻ったようだ。同時に罪悪感がちくりと胸を刺す。自分にまだ、こんな目で見てもらえる資格があるのだろうか。婚約者を差し置いて、他の男に恋してしまった自分に。


「さて、ここ最近ずっとさぼってましたからね。そろそろちゃんと働きましょうか」


 シグルトが席につき、リシェルはざわついた気持ちを押し込めて、仕事へと意識を戻した。



 



 


 リシェルが法院に来なくなってから、シグルトは本当に仕事をほとんどしていなかったらしい。国の行事や導師会議への出席など、最低限のことはしていたようだが、それ以外のことはほぼ手つかずだった。導師である彼をいさめようとする勇気のある魔道士はおらず、それをいいことにさぼり放題だったようだ。元から仕事熱心ではないことは知っていたし、リシェルのことで思い悩んでいたことも理解はできるが、ここまでひどいとさすがに呆れる。


(王都を離れて問題になった時に、先生が導師を辞めてたほうが皆のためにはよかったんじゃ……?)


 二日目になってもまだ山のように積まれている書類を前に、リシェルがそんなことを考えてしまう程の怠惰ぶりだった。全て処理するのにどれだけかかるだろう。


 だが、忙しいからこそ、気まずさをあまり感じずに一緒にいられた。それはシグルトも同じだったのだろう。いつもであれば、すぐにだらけたり、さぼり出すところを、朝からずっと休むことなく机に向かっている。こんなに真面目に働く師を見るのは初めてだ。まずは仕事を片付けねばならないという大義名分のもと、お互い目の前の書類に集中し、二人の抱える問題に向き合うことを先送りにしていた。


 そうして二日目も仕事に追われ、就業時間も間近に迫った時、シグルトの執務室を訪れたのはパリスだった。


「リシェル? お前シグルト様のところへ戻ったのか?」


 婚約者と仲違いしていると聞いていた友が、この場にいるのを見て、パリスは目を丸くする。


「その、仕事はしなきゃと思って……パリスは?」


「僕は……あの、シグルト様、急に申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」


 パリスの申し出に、執務机に座るシグルトは頷くと、机の上の書類を手早くまとめた。


「構いませんよ。……リシェル、こちらはもう署名が終わりました。届けてきてもらえますか?」


 どことなく強張った表情のパリスを見て、何か大事な話なのだろうと察したリシェルは、シグルトから書類を受け取ると、素直に退室した。


 二人きりになると、パリスは執務机のシグルトの前に立った。

 

「この間目覚めたばかりと聞きましたが、具合はもう大丈夫なんですか?」


「はい、この通りもうすっかり回復しました。シグルト様のおかげです。本当にありがとうございました」


「正直、治癒魔法は私も得意ではないのでね。君に何か悪影響が出るのではと思っていたのですが……よく無事でしたね。あれだけ私の魔力を受けて何の後遺症もないとは。ここまで回復できたのは君自身の実力と言っていいでしょう」


「あ、ありがとうございます!」


 思いがけず穏やかな声で、自らの師と同じことを言われ、パリスは嬉しさに一瞬口元を緩ませた。シグルトにはリシェルのことでうとまれていると思っていた分、褒められた喜びは大きい。


「それで? 礼を言いに来ただけではないのでしょう。何か話があるのでは?」


 問われて、浮かれた気分はすぐに緊張へと変わった。

 

「シグルト様、あの……弟子入りの件なのですが……」


 固い声と表情ながら、少年はまっすぐに憧れの大魔道士を見つめた。


「大変有難いお話ですが……遠慮させていただきます」

 

「……君はずっと私の弟子になりたいと希望していたのでは?」


 断られたことにシグルトは特に驚いた様子もなく、確認のように問う。


「はい、その通りです。僕はシグルト様、あなたに憧れて、あなたのような大魔道士になりたいと思ってきました。子供の頃から、ずっと……」


「なら、なぜです? 君にとってまたとない機会だと思いますが。正直、ブランの下で修行を続けても、君が望むほどの魔道士としての技量は得られないですよ」


 友を見下すわけではなく、ただ事実として淡々と告げるシグルトに、パリスはゆっくり首を振った。


「わかっています……ブラン様より、シグルト様の方が魔道士としてはるかに上で、あなたから学んだほうが得るものはずっと多いのだと……でも、僕は……シグルト様、あなたのような魔道士になりたいと思うのと同じくらい……ブラン様のような人になりたいと思っています」


「……」


「最初は確かに、あなたに弟子入りを断られて、なんでブラン様の弟子になんか……って、ずっと不満でした。今思うと相当失礼な態度も取っていたと思います。あげくに、リシェルに嫉妬して、あんな馬鹿げたこともして……でも、ブラン様はそんな僕を見捨てないでいてくださった」


 パリスの表情がふわりと柔らかくなった。

 初めてだった。シグルト以外の魔道士に尊敬の念を抱いたのは。魔道士の、人の価値など、魔力と魔法の技量で決まると信じて疑わなかった傲慢ごうまんな少年に、彼はまったく違う価値観を教えてくれた。


「僕には、あの人から学ばなきゃいけないことが、まだまだたくさんある。きっとそれは魔道士としての技量以上に、僕にとって必要で、大切なものなんだと……わかったんです。だから、僕はブラン様の弟子でいたい。せっかくお誘いいただいたのに、申し訳ありません」


 シグルトはしばらく、何も言わずにじっと目の前の年若い魔道士を見つめた。おくせずにまっすぐ見返してくるその青い目は、初めて会った時よりもずっと綺麗にんでいた。


「……なるほど。君は人間的に成長したいから、私ではなくブランの弟子でいたい、と。確かに私なんかより、彼のほうがずっと人間が出来てますからねぇ」


「あ、いえ……その、決してそのように思っているわけでは……」


「冗談ですよ」


 気分を害してしまったかと青ざめる少年に、シグルトはくすりとおかしそうに笑った。


「パリス君。君は、本当に変わりましたね」


「……自分でも、そう思います」


 まさか、あれほど熱望してきた、シグルトへの弟子入りを自ら断ることになろうとは。一番驚いているのはパリス自身だった。だが、確信していた。きっと、後悔はしない。

 

 シグルトがふと微笑む。それはどこか、寂しげで憂いを帯びていた。


「私は君がうらやましいですよ」


「え?」


「変わることが出来る君が」


「シグルト様……?」


 怪訝けげんそうにする少年に、シグルトは深いため息を吐いた。それから今度は幾分意地悪げににやりとする。


「まあ、正しい判断だと思いますよ。私の弟子になったら君、あっという間にディナもブランも他の導師も追い抜いて、自惚うぬぼれて、また性格悪いのに逆戻りでしょうから。ブランを選んだ君はやはり優秀ですね」


「え、性格悪い……?」


 おとされているのか、褒められているのか。優秀と言われまた顔がにやけそうになりながらも、同時に引っかかる部分もあり、パリスは微妙な顔になった。


 そんな親友の弟子を見るシグルトは、愉快そうだった。


「パリス君、君の修行、これからはたまに見てあげましょう。実は以前からブランにも頼まれてましたし、先の一件でリシェルを助けてくれた礼です」


「え? ほ、本当ですか!? あ、ありがとうございます! ぜひよろしくお願いします!」


 思ってもみない提案に、パリスの声がはずんだ。ブランの元に残ることを選んだとはいえ、今後の魔法の修練については不安もあったのだ。それを弟子入りを断わったにも関わらず、憧れの大魔道士が指導してくれるとは……なんという有難い話だろう。リシェルの件では、彼に対しもやもやした感情を持ってしまっていたが、やはり大魔道士、その立場と実力に相応しい心の広さがあるのだと、パリスは感動した。


「ええ、もちろん。君がリシェルに変な気を起こさない限りは、ですが」


 微笑みながらしっかり釘を刺され、パリスは笑顔を引きらせた。そして、悟った。弟子入りの話こそなくなったが、魔道士として鍛えてやる代わりに、リシェルに余計なちょっかいをかけるな、というシグルトが持ちかけてきた取引は、無事に成立したのだということを。

今日もお読みいただきありがとうございました!

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