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103 再び

「リシェル、本気なの?」


 横に立つディナがもう一度、リシェルの意志を確認してくる。昨日から、一体何度同じ問いが繰り返されただろう。


「うん、月の塔の人たちも困ってるみたいだし……」


 リシェルは答えて、目の前に空高くそびえる塔を見上げた。法院の一番北に位置する、月の塔。久しぶりに着る白のローブを、風がふわりと揺らした。


 セイラが持ってきてくれた荷物の中に、このローブが入っているのを見た時は、もうこれを着る機会などないと思っていたのだが……


 リシェルは法院に戻ることにした。ブランによれば、シグルトはリシェルが家を出てから意気消沈しており、一応法院には来ているものの、ほとんど仕事をしていないらしい。月の塔の魔道士たちも、ほとほと困り果てているそうだ。自分とシグルトのせいで、彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。


「本当にお人好しね。今まであなたに冷たく当たってきた連中じゃない。放って置けばいいのよ。あいつと二人きりになって、また何かされたらどうするの?」


 ディナの言葉に、リシェルは顔を赤らめた。

 

「大丈夫……だと思う。多分。グリムもいるし……」


 リシェルのローブのフードから、ちょこんと小さな黒い生き物が顔を出す。その赤い目で辺りを見回し、じっとりと自分を見るだいだい色の瞳に気づくと、慌ててフードの中へと引っ込んだ。


「グリムもいるって……あいつの使い魔じゃない、それ」


 心底呆れたようにディナは言い、諦めたようにため息を吐いた。


「あなたも意外と頑固よね。まあ、さすがにあいつも法院でおかしなことはしないとは思うけど……何かあったらすぐに知らせなさいよ」


「うん、ありがとう、ディナ」


 礼を言う、自分より背の低い少女を、ディナはじっと見下ろした。

 

「ねぇ、リシェル。あなた、やっぱり――」


「え?」


「……まあ、いいわ。じゃあ、また帰りにね」

 

 何か言いかけたものの、ディナは肩をすくめると手を振って去っていた。


 リシェルは再び、眼前の塔を見上げた。この最上階に、シグルトがいる。

 

 正直に言えば、まだ怖いという気持ちもあった。


 だが、シグルトに会わなければ。会って確かめなければ。

 

 自分にとってシグルトがどういう存在なのか。

 その答えが曖昧なまま、彼の求婚を受け入れたことで、エリックのことも、シグルトのことも振り回し、傷つけてしまった。


 答えを出さなければ。その答えの先に、自分の進むべき道があるはずだ。


 リシェルは深く息を吸うと、一歩を踏み出した。

 






 

 

「リシェル様! よかった! お戻りになられたのですね!」


 塔内に入るなり、リシェルの姿を認めた魔道士たちが、わっと歓声を上げ、寄ってきた。


「お帰りをお待ちしておりました!」

   

「どうかお助けください!」


 口々に言う彼らは、リシェルにびを売るというよりは、本心からリシェルの帰りを喜んでいるようだった。彼らからこんな歓迎を受けるのは初めてのことで、正直戸惑う。


「あの、ずっとお休みしていてごめんなさい。先生は……?」

 

「リシェル様がいらっしゃらない間、シグルト様が働いてくださらないせいで、まったく業務が回っておりません! なんとかしていただけませんか!?」


 集まってきた魔道士たちの中で、一番年配の男が、半泣きになりながら訴えてくる。どうやら、事態は相当深刻らしい。


 リシェルは、彼に連れられて、最上階の導師の執務室へと向かった。久しぶりに来る場所に、緊張が高まってくる。重厚な木製の扉は完全に閉じられておらず、薄く開いていた。その扉の隙間から、二人はそっと中をのぞき、様子をうかがう。


 部屋は片付いておらず、乱雑に散らかっていた。執務机の上にも、来客用のローテーブルの上にも、書類が山のように積み重なっている。そして、部屋の主は――ソファの上に突っ伏して倒れていた。片腕の上に顔を伏せ、もう片方の腕は力なくだらりと床へと垂らし、身じろぎひとつしない。まさか死んでいるのでは、と心配になるほどだった。


「ここ最近、朝から夕方まで、ずっとあのような調子でおられて……決裁の必要な案件が山ほどあるのですが、まったく目を通されていないようで……」


 年配の魔道士の男がひそひそ声でささやいた。手に持った書類の束を握りしめて言う、その声にも表情にも悲壮感が漂っている。


「失礼いたします」


 彼が部屋の扉をノックし声をかけるが、シグルトは反応しない。男はリシェルと目を合わせ、ため息を吐くと、扉を押し開いて中に入っていった。リシェルは扉のところに留まり、見守る。


「シグルト様、こちら、本日中にご確認いただきたい書類なのですが……」


「……そこに置いておいてください」


 ようやくシグルトが、ソファに顔を伏せたまま、気だるげに返事をした。


 男が指示された通り、ソファの前のローテーブルの上に、手にした書類の束を置く。シグルトはそちらを見ることさえせず、ぴくりともしない。


「……あの、シグルト様。よろしければ少し内容の説明をさせていただいても……?」


「……」


「し、失礼いたしました」


 返事がなく、機嫌を損ねたのかと焦る魔道士の言葉にも、シグルトはやはり無言のまま。リシェルはそっと部屋に入ると、死んだように横たわるシグルトの前に立った。


「先生」


「!」


 声をかけるなり、シグルトががばっと体を起こした。リシェルを見上げ、目を見開く。


「リシェル……? どうして……?」


 その心底驚いている様子を見るに、リシェルがここへ来ることはわかっていなかったようだ。ガームの屋敷を出た時点で、グリムを通じて法院へ向かうところを見られているかもしれないと思っていたのだが。


「先生、仕事はちゃんとやってください。皆さん困ってます。私も手伝いますから」


「……あ、はい……すみません……」


 ほうけたように気の抜けた返事を返して、シグルトは起き上がる。朝整えなかったのだろうか。白い髪には寝癖がついたままだ。顔色が幾分悪く、目の下にはうっすらくまもある。ブランが言っていた通り、思い悩み、食事も睡眠もきちんと取っていなかったのかもしれない。リシェルの良心がちくりと痛んだ。


「とりあえず、期限が迫っているものを優先的に処理しないと。書類を仕分けるのを手伝っていただけますか?」


「は、はい! もちろん!」


 共に来た年配の魔道士に頼み、二人で積み重なった書類を緊急性が高いものから順に仕分けていく。シグルトも執務机の椅子に座ると、渡される書類に真面目に目を通し、必要なものには指示を入れ、承認したものには署名をしていく。三人で作業していると瞬く間に時が過ぎ、あっという間に午前中が終わった。


「これでようやくとどこおっていた業務に取り掛かれます。ありがとうございます! リシェル様、シグルト様。では、失礼いたします」


 書類の仕分けが一通り終わりと、年配の魔道士は、決裁を得た書類を手に、満面の笑みで意気揚々と退室していった。

 

 ばたんと扉が閉まり、師匠と弟子、二人きりになった空間は途端に静かになった。


「あ、あの、リシェル――」


「私、昼食買ってきます!」


 シグルトが何か言いかけたのを振り切って、リシェルは足早に部屋を出た。

 

 覚悟してきたとはいえ、いざ二人だけになると、緊張でまともに彼の目を見れない。一度気持ちを落ち着けなければ。リシェルは食堂で二人分昼食を買うと、再び執務室へと戻った。扉の前で大きく深呼吸すると、ノックして入る。


「……買ってきました」


「あ……ありがとうございます……」


 買ってきた、野菜を挟んだパンとスープをローテーブルに置くと、シグルトとリシェルはソファに向かい合って座った。気まずい空気の中、お互い黙って食事を取る。しばらく沈黙が続いたが、やがてシグルトがカップに入ったスープを飲み切ると、意を決したように口を開いた。


「あの、リシェル、今日はどうして来てくれたんですか?」


「……月の塔のみなさんが困ってるって、ブラン様から聞いて……それと、パリスのこと、先生にお礼を言わなきゃと思って……」


「え、ああ……そうですか」


 期待した返事とは違ったのか、少し拍子抜けしたようにシグルトの肩から力が抜けた。


「パリス君、目が覚めたらしいですね。他に異変もなかったようだし、よかったです」

 

「先生、パリスのこと……助けてくれて、本当にありがとうございました」


「私はただ、傷をふさいだだけですから。無事に目覚めたのは彼自身の頑張りですよ」


 リシェルの礼に、シグルトは首を振った。

 

 短い会話が終わると、再び静けさが戻ってくる。何か言わねばと思うが、リシェルは何を話していいのかわからなかった。それはシグルトも同じらしく、目をそらしている。以前は、話題に困ることなどなかったのに。

 

 その時、リシェルのローブのフードががさごそと動き、小さな黒いトカゲが姿を現した。

 

「あ、グリム」


「グリム?」


 シグルトが怪訝けげんそうな顔をする。


「あ、名前がわからなかったので、そう呼んでいて……先生の使い魔なんですよね?」


「ええ、まあ。でも、名前はつけていなかったし、君がそう呼んでいるなら、それでいいですよ」


 この小さな使い魔への愛着は特に無いのか、随分と適当だ。


「先生にお返しした方がいいですよね?」


 リシェルはそっとグリムへ手を伸ばした。だが、グリムはさっと逃げるようにフードの中へと戻ってしまった。


「……かなりなついているみたいですね。君といたいらしい。嫌でなければ、そばに置いてやってください。魔物としては低級ですが、いつか何かの役に立つでしょう」


「いいんですか?」


 フードの中からグリムがまた顔を出した。その頭をそっとでてやる。ずっと自分のそばについて離れない、この小さな魔物に情がきつつあったリシェルとしては、決して嫌ではないのだが……


「あの、でも……」


「なんです?」


「グリムが見てるものって、先生も見えるんですよね……?」


 グリムの目を通じて、シグルトはリシェルとエリックが会っているところを見ていたのだ。そのことを二人とも思い出し、グリムのおかげで幾分和みかけていた空気がまた気まずいものへと戻った。


「勝手に見られたりするのは、嫌です……」


「えっと、あの、君がガーム導師の家へ行ってからは、君の様子を覗いたり、そういうことはしていなくてですね」


「ガーム導師の結界があるから出来なかったんですよね?」


「え、あ、まあ、そうなんですが……いや、でも、その、そういうことは本当にもう、しませんから……」


 シグルトはしどろもどろになる。


「……本当に?」


「しませんから。君が嫌がることは、もう決して」


 信用を失っていることにしょげた様子で誓うシグルトは、本当に反省しているように見えた。リシェルはグリムを撫でながら、うなづく。


「なら……お預かりします」


「お願いします。その、それ……グリムは私の居場所がいつでもわかりますから、何か私に用があって探す時はその子に聞いてください」

 

「わかりました」


 その後は特に会話もなく、ぎこちない空気のまま食事を終え、仕事を再開する。午後は最低限必要なことだけ言葉を交わし、後は二人とも黙々と膨大ぼうだいな書類の処理をこなした。時折交わされる短い会話の他は、紙をめくる音、ペンを走らせる音、部屋の片付けのため歩き回るリシェルの足音だけが、静かな空間に響く。


 そうやって何時間が過ぎただろう。先程からシグルトがちらちらと壁に掛けられた時計を見やっていることに気づき、リシェルもそちらへ目を向けた。まもなく終業時刻になろうとしている。

 

「あの、リシェル。今日、一緒に……家へ帰ります?」


 シグルトが遠慮がちにたずねてくる。


「……ごめんなさい。私、家には……まだディナの所にいます」


「そう、ですか……」


 落胆した様子でがっくり肩を落とす師に、心がちくりと痛んだ。だが、まだ家に戻る勇気はない。また閉じ込められるのではないかという疑念がなくはないのだ。深く悔いた様子の彼に謝られ、同情が芽生えたとはいえ、あの日のシグルトを忘れたわけではない。憎悪すら感じた激しい口づけ、投げかけられる残酷な言葉、こちらを見下ろす冷たく冷え切った眼差まなざし……


「終業時間ですね。もう帰っていいですよ。リシェル。今日は来てくれてありがとう」


 シグルトが言った。穏やかで、柔らかな声。そこには弟子への労りと、傷つけてしまった婚約者への遠慮があった。


 あの時の彼とは別人のようだ。一体どちらが本当のシグルトなのだろう。今の彼は冷酷な本性を隠した演技に過ぎないのか。それとも、あの時は本人の言う通り、嫉妬ゆえにおかしくなっていただけで、今の彼こそが本来なのか。


「お疲れ様でした」


 シグルトはぎこちなく微笑む。その寂しげな笑みから目をそらすように、リシェルは一礼するとその場を後にした。


お読みいただきありがとうございました~

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