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102 訪問

 翌日の朝、リシェルは屋敷の玄関ホールで掃除の手伝いをしていた。手にしたき布で、ホールに飾られている等身大の鏡を磨き上げてく。


(パリス、目が覚めて本当によかった……)


 手を動かしながら、昨日のことを思い出す。もう二度と言葉を交わすことも出来ないのではないかと思っていた友の、思いの外元気そうな姿に、ずっと抱えていた不安からようやく解放された。

 

 次にシグルトに会ったら、パリスを助けてくれた礼を言わなくては。


(次に先生に会ったら……)


 ――どうか、戻ってきて欲しい。


 この先どうするのか、決めなければならない。

  

 リシェルは鏡を拭く手を止めて、じっとそこに映る自分の姿を見つめた。

 

 たった今磨いたくもりのない鏡の中で、薄紅色の瞳がまっすぐに見返してくる。もとはエリックと同じく、黒かったはずの瞳。アーシェが願い、シグルトが自分を蘇らせたことで変わってしまった、自分が常人とは違うのだということを示す証。


 そっと手を持ち上げ、頬に触れる。柔らかく、温かい感触。自分は今、確かに生きている。呼吸し、意思を持つ、生きた人間だ。だが、所詮しょせんシグルトの魔法でこの世に繋ぎ止められているだけの、仮初めの命を与えられた死者に過ぎないのだろうか。


 シグルトの言うことを信じるなら。

 自分には、彼の元に戻る以外の選択肢はない。彼のそばを離れては、生きられないのだから。


 魔力を封じられたまま、魔道士にもなれず、ずっと自分に嘘をついていた彼のそばで生きる。

 

 脳裏をエリックの姿がよぎった。同時に、口づけの記憶も。ほろ苦さと、かすかな甘さがじんわり心に広がる。

 

 ……この気持ちを抱えたまま、シグルトのそばにいられるだろうか。いや、いてもいいのだろうか。彼はそれでもいい、と言ってくれた。


(でも……)

  

 このままシグルトの元へ戻ったら、きっとこの先彼を苦しめ、また自分自身も罪悪感を抱え悩み続けることになるのではないか。エリックにかれる、自分のこの想いのせいで。


 いっそ――シグルトの元へ戻らず、死を受け入れるべきだろうか。

 

 本来ならもう、この世にないはずの命だったのだ。今だって、シグルトの魔力なしでは存在できない不完全な命。自分がいなくなれば、シグルトが禁術を使用した証拠は消え、誰にも知られず、彼が死罪になる危険もなくなる。ならば、いっそ――


 ――私はいつだって、どこにいたって、エレナの幸せを祈ってるから。


 不意に、記憶の奥底から声がした。これは昔、誰かが言った言葉。そう……この声はアーシェだ。

 

 自身が死にひんしてなお、シグルトにリシェルを救うよう頼んでくれたアーシェ。彼女が願ってくれたこの命を、この生を、諦めてしまっていいのだろうか。それは彼女に対する裏切りであるような気がした。


 それに、何より。


(私、死にたくない……)


 ディナやパリス、ブランに、ミルレイユやクライル……そして、エリックとシグルト。今まで出会ったたくさんの人達の顔が浮かぶ。自分はまだ、この世界にいたい。彼らと関わっていたい。生きていたい。迷ったところで、それが本音なのだ。

 

 結局、いくら考えても結論は一つしか無い。

 

 突然、玄関の扉を叩く音が広い玄関ホールに響いた。

 あたりを見回すが、他に使用人の姿はない。自分が対応した方がいいだろう。リシェルは鏡を見てさっと身なりを整えると、扉を開けた。

  

 リシェルは息をむ。扉の先には――黒髪の騎士が立っていた。


「エリックさん! どうして?」


 まさかいきなりリシェルが出てくるとは思っていなかったのだろう。突然の再会に、エリックの方も、珍しく表情に動揺を見せた。


「……ディナと来週会う約束があったんだが、行けなくなった。近くまで来たから、直接伝えようと思って来たんだが」


 リシェルの動揺は彼以上だ。うわずりそうになる声を必死で抑える。


「あ、えっと……ディナは用事があって、今日は街に出てるんです。か、帰ってくるまで待ちますか?」


「……いや、いい。伝えておいてくれれば」


「わかりました」


 短いやり取りが終わると、沈黙が落ちた。お互い目をそらしたまま、気まずい空気がただ流れる。

 

 だが、エリックはなかなかその場を立ち去ろうとしない。リシェルがそっと視線を持ち上げ、様子をうかがうと、エリックが口を開いた。


「少し、話せないか?」


 予想外の提案に、何の心の準備もしていなかった心臓はばくんと飛び跳ねた。


「……はい、大丈夫……です」


 小さな声で応じてから、リシェルは彼を人気のない庭へと案内した。さすがに居候いそうろうの身で勝手に客を家に入れるのは気が引けたし、屋敷内では他の使用人の目も気になる。


 なんとなくお互い向かい合うのを避け、二人は庭の噴水を向いて並んで立った。朝の柔らかな光の中、鳥のさえずりも聞こえ、庭園は清々しい空気に満ちている。対照的に、二人に漂う空気は重く、リシェルはずっと緊張したままだった。


「あの……今日はクライル様の護衛は……?」


 沈黙が痛くて、何とか普通に振る舞おうと、か細い声を絞り出す。エリックは騎士服姿だから、職務中のはずだ。


「……最近は他の仕事が忙しくてな。今日もそれでこの近くまで来た」


「そう……なんですか」


 有能な彼のことだ。護衛以外の仕事もいろいろ任されているのだろう。前に彼を訪ねたときも、彼は兵舎で兵の訓練をしていた。あの日のことを思い出し、また居心地の悪さが増していく。 


「最後に俺と会ってから……ずっとディナの家にいるのか?」


「……はい」


「あいつと何があった?」


「それは……その……」

 

 エリックとの口づけ、その後のシグルトとのこと……あの日のいまだ鮮明な記憶に、ほおが熱くなってくる。

 顔を赤らめ、目を泳がせるリシェルに、エリックは少しためらった後、続けた。


「……俺のせいか?」


 正直に肯定するのも気が引けて、リシェルはただうつむく。


「……あの時は……悪かった」


 まるで独り言のような呟きが、ぼそりと横から聞こえた。もしかして、彼はディナの家にリシェルがいることを知って、謝りに来てくれたのだろうか。リシェルはそっと首を振った。


「いえ……その……先生とは、あの時にはもう、喧嘩けんか……というか、うまく行っていなくて……だから、エリックさんのせいだけ……っていうわけじゃなくて……」


 恥ずかしさをこらえ、勇気を出して聞いてみたかった問いを口にする。


「あの、エリックさんは……どうして、その、私に……あんなことを?」


「……お前は、あいつのそばにいる方がいいと思った。それがお前にとって幸せなんだと」


 エリックは目をせ、ささやくように言う。長いまつげが影を落とす黒い瞳と、彼らしくない力ない声はひどく寂しげだった。


「お前は俺ともう関わらない方がいいと思った。嫌われるようなことをすれば、お前はもう来ないだろうと……それにあの時、シグルトに監視されていることに気づいて……復讐を諦める代わりに、あいつへのせめてもの仕返しのつもりだった。最低だよな、お前を利用するなんて……これじゃあロビンと一緒だ」


(仕返し……)


 その言葉が、リシェルの胸に虚しく響く。

 

 わかっていた。彼にとってあの口づけが、特別な想いのあるものなどではなく、単なる手段に過ぎなかったということは。だが、本人にはっきり言われてしまうと、ほんのわずかに心に抱いてしまっていた期待が消え去り、そこに空虚くうきょな穴が空いたようだった。


「それから……」


 エリックは何か言いかけたが、その先の言葉は飲み込んでしまった。

 

「とにかく……悪かった」


 再度謝罪すると、リシェルへと向き直る。


「あいつのところへは戻るのか?」


 リシェルの方はまだ彼と目を合わせられず、うつむいたまま答えた。


「……戻るしかないと思ってます。国王陛下の前で結婚するって言ってしまったし、それに……」


「それに?」


「その、他にもいろいろ事情があって、私は先生のそばを離れられないから……」


 曖昧あいまうに言葉をにごしたが、次にエリックの口から飛び出た言葉に、リシェルは耳を疑った。


「……禁術か」


「な、なんでエリックさんが知ってるんですか!?」


 恥ずかしさも気まずさも忘れ、思わずばっと顔を上げ、長身の騎士を見上げる。その秀麗な顔には、明確な嫌悪感が浮かんでいた。


「そうか、あいつ、お前に話したのか。それを言えば、お前はあいつに従う以外なくなるしな。……本当に最低だな」


 吐き捨てるように言った後、じっとリシェルを見下ろす。

 

「俺の知り合いに、腕の立つ魔道士がいる。嫌な奴だが、魔道士としては一流だ。そいつはシグルトがお前にどういう術を使ったか、ある程度予想がついているらしい。詳しく調べれば、お前があいつの魔力無しで生きられるようにする方法も見つかるはずだ。きっとお前の力になれると思う」


「エリックさん……あなたは一体……?」


 なぜ彼が禁術のことを知っているのか。その知り合いだという魔道士も何者なのだろう。


 地方の騎士団で活躍し、クライル王子の護衛役に抜擢ばってきされた、腕の立つ、美貌の剣士。破魔の力を持ち、カロンの出身で、かつて自分とアーシェと共にいた。エリックについて知っているのはそれだけだが、どうやら彼にはまだ自分の知らない一面があるらしい。

 

「俺は……何があってもお前の味方だ。それだけは信じてくれ」


 まっすぐにリシェルの目を見据え、力強く断じる。


「お前が、お前自身の意志で、シグルトといることを選んだというなら、俺は復讐も、お前を取り戻すことも、何もかも諦めようと思った。でも、あいつのそばにいることがお前の幸せでないなら……あいつに縛られる必要なんてない。何をしても、俺がお前を解放してやる。だから、俺と来てくれないか?」


 その真剣な黒い瞳に、真摯しんしな言葉に、リシェルの胸は高鳴った。

 

 疑いようもなく、彼は自分を大切に想ってくれている。だが、それはなぜなのか。想いを寄せる相手にこんなことを言われ、先程消えたはずの期待が蘇ってくる。相手も自分と同じ気持ちなのではないか、と。


「どうして、私のためにそこまで言ってくれるんですか? 私たち、兄妹じゃないんですよね?」


「……」


 エリックは否定も肯定もしない。リシェルの不安と期待が膨らむのに十分なほどの間を置いて、彼はゆっくりと告げた。まるで自身にその決意を言い聞かせるように。

 

「お前にとって必要なら、俺はお前の盾でも剣でも……兄にでも……何にだってなってやる」


 帰ってきた言葉は疑問に答えるものではなかった。だが、彼の想いの強さは伝わってくる。


「私……」


 彼に大切に想われている嬉しさと、やはり兄妹なのだろうかという不安と。

 そして、もう他の道はないと思っていた自身の未来に、突然別の選択肢を突きつけられて。


「少し、考えさせてください……」


 混乱した頭では、決断などできなかった。

 昨日、今日と思いもしないことが起きてばかりだ。とにかく今は、考える時間が欲しい。


「……わかった」


 予想していた反応だったのか、エリックはうなづく。


「王都の外れに、今は廃墟になっている、旧王朝時代の神殿跡地がある」


「え?」

  

「五日後の昼、そこで待ってる。もしお前が来てくれたら……俺はすべてを話す。六年前のことも、アーシェのことも、俺とお前の関係も……すべて」

 

「!」


「よく考えてくれ。シグルトの元へ戻るのか、それともあいつの元を去るのか。シグルトの元へ戻れば、お前はリシェルとしてこれからも平穏に暮らせるだろう。俺の元へ来るなら、過去を知ることになる。そしたらお前は……元の暮らしには、あいつの元へは戻れなくなる。その覚悟があるなら」


 リシェルに決断を促す、今の彼の目には、迷いを断ち切ったかのような、固い決意があった。


「どうして……話してくれる気になったんですか?」


 彼は今までどれだけリシェルが願っても、過去を、真実を教えてはくれなかったというのに。 


「……俺はずっと、迷ってた。あいつのそばで笑っているお前を見て、このままお前に何も知らせない方がいいんじゃないかって……俺は、きっとお前を幸せにしてやれない……だから、お前を諦めるべきなんじゃないかって……」


 自身の葛藤かっとうを語る彼の黒い瞳は、切なげに揺れていた。その姿が、いつか夢で見た黒髪の少年と重なる。


「でも……やっぱり俺は、お前に俺のことを思い出して欲しい。それが俺の我儘わがままで、もうあの頃には戻れないのだとしても……俺は……」


 ――エレナ! 頼む、目を開けてくれ! 俺を、一人にしないでくれよ――


 闇に覆われた記憶の奥底から、頭の中に響く、少年の声。必死に呼びかけるその声は、一人取り残されることへの恐怖で怯え、震えていた。


 リシェルは思った。


(ああ、エリックさんは、ずっと――)


 孤独だったのだ。

 故郷を失い、共にいたアーシェと、エレナ――自分を失って、一人になってしまった彼は。


 自分と再会するまでに、彼がどう生きてきたのかはわからない。だが、彼は多分、ずっと自分を求めていてくれていたのだろう。

 

 なのに――再会した少女は、故郷を滅ぼした憎い男のそばで笑い、弟子として生きていた。エリックのことも、何もかも忘れて。


 こうして一緒にいても、自分は過去を思い出せない。彼の抱える悲しみも、苦しみも、分かち合うことが出来ない。

 エリックは今も――孤独なまま。


「……五日後、待ってる」


 エリックは弱さを見せてしまったことに気まずさを感じたのか、目をそらすと、それだけ言い残し、リシェルに背を向け、庭園を後にした。


 リシェルはそっと自身の胸へと手を当て、エリックのひるがるマントを見送った。


 決断しなければならない。

 シグルトの元へ戻るか、エリックの元へ行くか。


 エリックは、いくども自分を助けてくれた恩人だ。自分の過去を知る、兄かもしれない人。そして――自分は彼に恋心を抱いている。


 では、シグルトは?


(私にとって先生は……)


 この六年、ずっとそばにいてくれた、誰よりも信じてきた人。

 家族のような存在ではあったけれど、父親というには若すぎたし、兄というには年が離れていた。とりあえず師匠と弟子という関係に落ち着いたけれど、彼はいつも自分に甘くて、過保護で、魔法だって教えてくれなかったし、師匠とも果たして本当に呼んでいいのかどうか。成人して、求婚されて婚約者にはなったけれど、恋人と言うには少し違っていた気がする。


 自分にとって彼がどういう存在か、明確な関係性を表す言葉で言うことはできなかったけれど、それでも……間違いなく一番大切な人だった。彼の嘘と冷たい本性を知ってなお、不信こそあれ、嫌いにはなれない程に。


(ブラン様や、アーシェも……同じだったのかな?)


 どれだけ裏切られ、傷つけられても、嫌いになれない。

 彼らがシグルトを見放さなかったのはなぜなのだろう?

 シグルトはブランにとっては親友、アーシェにとっては……恋した相手だ。

 

 では、自分にとっては?

 

 たとえ、最終的にシグルトの元を去る決断をするのだとしても。

 その前に、知りたい。

 シグルトが自分にとって何なのか。


 リシェルは決心すると、足早に屋敷へと戻った。


昨日更新出来ず、今日になってしまいました。

お読みいただきありがとうございました!

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