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一等書記官エリック・ブレンダーの事務的な報告 〜ワンオペ女主人の逆襲の章〜

作者: anz
掲載日:2026/10/09

 資料室に次々と運び込まれてくる書類の山を前に、私は固まっていた。


「一体何の騒ぎですか……?」


 ちょうどやってきた上司、ジョナサン・ハウエル法務卿に説明を求める。


「DG社から提出された会計帳簿、取引伝票、その他諸々だ。女主人のサブリナ・デイモンが会社の資金を横領していた証拠らしい」


「ああ……“逃げられ”デイモンですか」


 DG——デイモンズ・グレインは王都の有力な食品商社の一つ。二代目のアクセル・デイモンが精力的に事業を拡大し、最近では西大陸の鉄道事業にまで首を突っ込んでいるらしい。


 ところが今、本業である国内の穀物の取引がうまくいっていない。すべての取引先を管理していた女主人のサブリナ・デイモンが夫に離婚届を叩きつけて出て行ってしまったからだ。


 アクセル・デイモンは次々と新規事業に手を出す傍ら、社交界で派手に顔を売り、金の匂いに寄って来る女たちにも片っ端から手を出していた。彼は自分の才覚だけで会社を成長させてきたと自負しているようだが、実際に金と物がどう動いているか知らないし、興味が無い。実質的にすべての舵取りを一手に引き受けてきたのは妻のサブリナの方なのだ。


 だから妻が愛想を尽かして出て行った今、傾きそうな会社を誰も立て直せない。あまりにも自業自得な彼の現状を揶揄して、世間の人々は“逃げられ”デイモンと呼んでいる。


「戻ってきてくれと素直に頭を下げればいいものを、不正だ横領だと難癖をつけてなんとか妻の方に頭を下げさせたいわけですね。こんな大騒ぎをして……余計な仕事を増やされるこっちの身にもなってもらいたいのですが」


「それはそうなんだが、提出されたものは調べないわけにもいかない。いい加減に済ますわけにもいかないしな。君の力を借りないことには法務省の仕事が数日止まってしまう」


「もちろんやりますよ。徹底的に」


 私は際限なく積み上げられていく書類を前に、すでに頭の中で段取りを組み立て始めていた。これこそ書記官本来の仕事だ。


 私は法務卿を補佐する一等書記官エリック・ブレンダー。普通、書記官の仕事というとこのような書類や記録の整理が真っ先に思い浮かぶものだが、どういうわけか殺人事件の真相を調査したり、公爵令嬢の冤罪を阻止したり、最近すっかり何でも屋になりつつある。


「おそらくわざとでしょうが、運び込まれてくる書類の種類と順番があまりにも無秩序です。本当は必要の無い書類まで大量に持ち込んで、こちらが真面目に調べる気力を失くすようにしたいのでしょう。そんな小細工をするということはつまり、真面目に調べられると都合が悪いことがあると言っているようなものです。必ずそれを見つけ出して、私の手を煩わせたことを後悔させてみせますよ」


 私の唇に自然と浮かんだ黒い笑みをチラリと一瞥し、法務卿は心配そうな顔をする。


「……あまり無理をしすぎないようにな」


「ご心配なく」


 即答したが、上司のアッシュグレイの瞳にはまだ半信半疑の色が浮かんだままだった。



*



「どこにも問題は無い??そんなはずがないだろう!!本当にちゃんと調べたのか!?」


 三日後、法務省の資料室にやって来た“逃げられ”デイモンことアクセル・デイモン氏は私の報告を聞いて大声を張り上げた。上等な仕立てのモーニングとシルクハット。一分の隙も無い王国紳士の装いとは裏腹に、品の無い恫喝的な態度はいかにも城下の大店(おおだな)のドラ息子といった風情だ。たしかもう四十近い歳だったはずだが。


「それはもう隅から隅まで」


 私はまとめてあったいくつかの伝票の束をめくって見せた。


「あなたがたが問題にしているのはこれですか?」


 DG社がいつも小麦を買い付けている貴族や大地主との取引伝票だ。ただし買ったのではなく、売っている。品目はトウモロコシや雑穀類、つまり家畜の飼料だろう。問題は、会計帳簿にこれらの取引の記載が無いこと。支払われたはずの代金がどこかに消えている。


「ちゃんと探しましたよ。このいかにも見つけてくださいと言わんばかりの、いかにもな裏帳簿を」


 表紙に何も書かれていない帳簿が数冊。これだけやけに分かりやすい場所に置かれていた。詳細な品目などは書かれておらず、ただ取引の日時と金額だけが並んでいる。その数字がさっきの不明伝票と合致することも確認済みだ。


「そうだ!その帳簿の入金記録を見てみろ。振込先はウチと取引の無いロイヤルシティ銀行。妻が勝手に作った口座だ」


 勝ち誇ったような顔をされても困る。私は彼らが見せたいものだけを額面通りに受け取って納得するほどお人好しではない。


「確かに物とお金の動きはここにある通りです。でも会計上何の問題もありません。なぜなら正しく記載された帳簿が別にちゃんと存在するからです。この雑な裏帳簿はあなたが作ったんですよね?」


 アクセル氏の隣の会計士を見ると、とても分かりやすく狼狽えた顔をした。


「あれだけ無駄に目くらましの書類を山ほど運び込んでおいて、肝心なこの帳簿を提出し忘れたなんて言い訳は通用しませんよ?」


 私が取り出した帳簿を見て、アクセル氏は愕然とした。


「ど、どこでそれを!?」


「あなた以外にこれを持っている唯一の人物ですよ。決まっているでしょう。奥様のサブリナさんです」


「妻に会ったのか!?」


「ええ。正直、奥様には驚かされました。ここにある帳簿の取引をすべてたった一人で管理していた上に、完全に別会計の自分の会社を立ち上げて同時に切り盛りしていたとは。余人を以て代えがたい商才ですね」


 帳簿の表紙には「ミストレス商会」の名前がある。私は彼女――サブリナさんに会ってその立ち上げの一部始終を聞いていた。



*



「本当にね、何度逃げ出そうと思ったか分からない。嫁いだばかりの頃はね、まさか自分がこの歳になるまであの家にいるなんて考えられなかった」


 ホテルのラウンジで会うなり怒涛の勢いで身の上話を始めたサブリナ・デイモン夫人は、見るからに城下の大店の女将さんといった風情で、いかにも人懐っこく図太そうだった。


 しかしこう見えてこの人は貴族階級の出身。蝶よ花よと育てられた伯爵家のご令嬢だったのだ。富裕な家とはいえ、市井に嫁いでさぞかし苦労も多かっただろう。


「あの頃の奥様の恐ろしい顔といったら……私、今でも時々夢に見るわ。一日に百回は叱られて泣いてたわね。あんたはもうお貴族様じゃない。商家に嫁いだんだからそんな澄ました顔はやめな!ってね。そんなこと言ったって仕方ないじゃない?そういう教育を受けて育ったんだから、それしか知らないんだもの」


 早々に相槌のボキャブラリーが尽きてしまった私は、ただ紅茶のカップを上げたり下ろしたりしながらうんうん頷いていた。


「でね、一年かけてやっと家の中のことを全部覚えたと思ったら、今度は会社の取引先を全部覚えろって言うの。えっ?それ私がやるの!?って思うじゃない?女は家を守るもので、商売のことは夫がやるんでしょって。でも奥様はこう言うの。男は外で遊び回ってお偉いさんに顔を売るのが仕事だって。商家じゃ会社も家の一部なんだから、女が全部仕切るのが当たり前だって。そんなの聞いたことある?」


 すごい理屈だ。さすがに聞いたことがない。


「でも奥様はそうなの。会社の経営も家事の監督も子供の教育も女主人が全部やる。私は十五年かけてその仕事のすべてを叩き込まれた。最初は寝る暇なんて無かったわ」


 それはそうだ。街の小さな商店を一つ切り盛りするのとは訳が違う。王都でも有数の大商社の経営なのだ。やれと言われてできるものではない。


「なんで私がこんなことをってずっと思ってた。だって、うちの取引先は地方の地主が多いんだけど、ほとんどは私の実家よりずっと身分の低い田舎貴族なの。その家令に頭を下げるのよ、いつもご贔屓にありがとうございますって。恥ずかしくて死にたくなった。実際、何度か死のうと思って毒入りのお酒を飲んだわ。本当に死ぬほどの毒を飲む勇気は無かったけどね。そしたら奥様は何て言ったと思う?」


 私の相槌不足が不満なのか、時々質問が飛んでくる。否応なく会話に引き込む術に長けた人だ。答えようがなくて困っていると、すぐに続きが始まった。どうやら質問ではなく単なる息継ぎのようなものだったらしい。


「そんなことで捨てたくなるなんて、お貴族様の命はずいぶん安っぽいんだねって。今うちの金庫にはたくさんお金があるように見えるかもしれないけど、ちょっとやり方を間違ったら明日には全部消えて無くなるかもしれない。平民ってのはいつでもそうやってやっとの思いで意地汚く生きてるんだ。そのうち商売が立ち行かなくなったら一家揃って嫌でも首を括ることになるから、それまでは死ぬ気で働きな、だって」


 なんという無茶な回答。いくら考えたって私の頭からこういう言葉が出てくるはずもない。


「その時私、プツッと何か切れちゃって……お貴族様お貴族様って、平民に馬鹿にされたまま死んでたまるか!あなたなんかにできることが私にできないわけないって、絶対に認めさせてやる!って奥様に啖呵を切ったのね。ああ恐ろしい。若くて世間知らずって怖いわよね」


 気持ちは分からなくもないが、自分が彼女の立場だったらそんなことが言えるだろうか?たぶん無理な気がする。並大抵ではない。尊敬に値する精神力だ。


「それからはもう必死で、プライドも上品な立ち居振る舞いも全部放り出して商家の女主人になりきった。誰に頭を下げたって死にはしない。そんなことよりも、できないって奥様に思われることの方が嫌だった。そうやって意地を張り続けて……何年経った頃かな?気が付いたらいつの間にか奥様が私のすることに何も口出ししなくなってたの」


 サブリナ夫人がようやく紅茶に最初の口をつけた。もうほとんど冷めているだろう。


「ある日ふと思い出したように聞いてみた。どうして何も言わないんですか?って。そうしたら、ここの女主人はあんただろ。あんたが好きに決めな、だって」


 カップに視線を落として、サブリナ夫人はなんともいい顔で笑った。


「不意打ちで泣きそうになったわ。何それ私のこと認めたなら認めたってちゃんと言いなさいよって。その時ようやく私、あの家に嫁いできた意味が分かったのね。ああ、これが私の人生だったのか。こんな人生になるなんて想像もしてなかったなって。でも仕方ない。これしかなかったんだから、いいも悪いもないじゃない?」


 答えようのない問いかけばかり飛んでくる。でもその通り、彼女の人生だ。いいも悪いも他の誰が決められようか。私はただ神妙に頷いた。


「……ああそうそう、なんだっけ?夫の話よね、ごめんなさい」


 まるでついでのように言う。私は彼女の不明瞭な会計処理について確かめに来たはずだった。話はまだまだ長くなりそうだ。


「あの人、昔は私のことお姫様みたいに扱ってたのよ。本物の上流階級ってものにどうしようもなく憧れがあるの。今もそうだけどね。でも私はどんどん商家の女になっちゃって、彼の興味はどんどん私から離れて行った。私がお嬢様らしさを投げ捨てて必死で家のために働くほど、あの人は家に寄りつかなくなったわ」


 よく聞く話ではある。伯爵令嬢を妻にしたはずなのに、嫁いだ時点でもう伯爵令嬢ではないのだから皮肉な話だ。


「昼は社交クラブでカード遊び。夜はパーティーを渡り歩くのが彼の仕事。まるで独身みたいにあっちこっちの夫人と噂になってね。私が寝る暇も無く帳簿とにらめっこしてる時によ?まったくいいご身分だわね、世の紳士の皆さんは」


 なんだか世の男たちを代表して自分が責められているような気がしてくる。私が何をしたわけでもないのに変に居心地が悪い。


「いいのよ別に?外でハメを外すのも、それを仕事だと言い張るのも、みんなやってることだから。でも他所で子供を作っちゃうのはダメね。それは完全にアウトでしょ。私と息子が家で帰りを待っている間、他の家で他の子供を抱いてたっていうのはね。あれだけは許せなかった」


 ギロリとこちらを見るサブリナ夫人の目が剣呑な迫力を帯びる。そういえばアクセル氏には隠し子疑惑が後を絶たなかった。少なくとも一つは本当だったようだ。


「あの時から、私が守りたい家や家族の中にあの人は入ってないの。幸い、子供ももう大きくなったし、一人の大人としてあの人とどう向き合うかはあの子の問題。でも私は許さない。この先も決して許すことはないと思う」


「それで離婚を決意されたんですか?」


 やっとこちらから質問する隙ができた。


「ううん、関係ないわね。私、離婚するつもりはなかったし」


「あ……そうなんですか」


 話がさっぱり見えてこない。私がこんなに会話の主導権を握れない相手は初めてではないだろうか。


「奥様が亡くなる前にね、あんたはもう好きなようにやりなさいって言われたの。家のことも会社のことも何も気にしなくていい。息子に愛想を尽かしたなら捨てて出て行ったって構わないってね」


 大奥様の言うことがいちいち規格外で爽快感さえ覚える。息子を捨てても構わないなんて、なかなか言えることではない。


「私がずっと悩んでたこと、お見通しだったのね。子供も手を離れて、仕事に全力で打ち込めるようになって、これからもっとDGを大きくしていける自信があった。でも夫がいると無理なの。私の会社じゃない。あの人の会社だものね。あの人と私は見ているところが違いすぎる。きっとこのままじゃDGはダメになる。でも私にはどうすることもできない。それでいいの?って、グルグルグルグル頭の中で堂々巡りしてた。奥様にはそれが分かってたのよ」


「でも実際、夫の意向を無視して妻が会社を好きなように動かすことはできない……ですよね?」


「そうね。だから奥様は私のための新しい会社を作ってくれたわ。大旦那様から遺された遺産のほとんどを使って。これはDGとは関係ない、自分が自由にしていいお金だから、一番使いたいことに使うんだって。息子に構わずあんたが自分の会社でどこまでやれるか見てみたい。そんな楽しみがあったら天国に行っても退屈しないから、あんたはあんたの思う通りにやってみなさいってね。私はその会社に女主人(ミストレス)って名前を付けた。自分ではもうすっかり一人前のつもりだったけど、やっぱりあの方にだけは頭が上がらない。私にとっては永遠に奥様だけが女主人(ミストレス)なのよ」


「別会社…………なるほど。DGから資本的に独立した別会社があるんですね?西大陸からの輸入飼料を販売する会社が」


 私はDGの会計帳簿に未記載だった伝票の束を取り出した。隠されていたのではない。そもそもDGの取引ではなかったのだ。


「このところずっと家畜の飼料の値上がりがひどかったでしょう?取引先から頼まれてたのよ。なんとか少しでも安く手に入れられないかって。それで色々ツテをたどって、西大陸から安く仕入れるルートを作ったんだけど、夫が首を縦に振らなくてね……王都の食卓を守るデイモンズ・グレインが豚の餌など売れるか!って」


「それであなたはDGではなく自分の会社で飼料を仕入れ、販売した」


「できれば夫に知られずに続けたかったけど、まあそんなわけにもいかないわよね。何しろDGの取引先のほぼ全部がミストレスの飼料に飛びついたんだから。当然バレた」


 悪戯が見つかってしまったような顔で舌を出して見せる。バレないわけがない。DGの取引先のほぼ全部ということは、王国に存在する家畜の半分近くがその飼料を食んでいることになる。とてつもない規模の巨大取引だ。


「てっきりやめろって言われるかと思ったら……あの恥知らず、ミストレスは自分のものだって言い出した。母の出資で立ち上げて、DGの取引先で商売をしてるんだから、これは当然自分のものだって。冗談じゃない。私はDGのお金を銅貨一枚だってミストレスには入れてないのよ?奥様が私に遺してくれたあの会社だけは絶対に渡さない。どうしても渡せと言うなら、私はDGから離れる。そう言ったらあの男、なんて言ったと思う?」


 また問いかけが来た。でもこの答えは簡単だ。


「勝手にしろ。この家を出てお前に何ができる?女の分際で経営者気取りもいい加減にしろ。勘違いするなよ?ただ帳面をつけるだけの仕事なんか誰だって代わりができるんだ。デイモンの名前なしでお前に仕事などできるものか」


 サブリナ夫人は目を丸くした。


「正解!驚いた、ほとんどその通りよ。あなたすごいのね」


 こんな何のひねりもない台詞ならいくらでも予想がつくのだが。


「そんなこと言われたらもう黙ってられない。あの家には恩義があるし、奥様への義理もある。でもここで引き下がったら私の人生に対する冒涜だと思った。奥様にも顔向けできない。で、その日のうちに離婚届を叩きつけて出てきたってわけ。どう?私に何か問題ある?」


 離婚届については私の関知するところではない。彼女の会社――ミストレス商会の帳簿が確認できればこの仕事は一件落着だ。しかし、どうも今の身の上話に引き込まれすぎたせいか、私はつい余計な口出しがしたくなってしまった。離婚に家出に職務放棄……だけでは手ぬるい。それだと築き上げてきたものを手放すのは彼女だけではないか。もっと賢いやり方があるだろう……と思ってしまったのだ。


「そうですね。問題というわけではありませんが、強いて言うなら一つだけ……」


 そこから先は書記官としての言葉ではなかった。



*



「ミストレスは母の遺産だ!唯一の相続人である俺が受け継いでいる!」


 妻の不正をでっち上げることに失敗したアクセル氏は、開き直って無理筋の権利を主張し始めた。


「いいえ。奥様にも相続の権利はありますし、お母様は正当な分与の手続きをなさっています。それに、いずれにせよ今は奥様が全株式を取得していますから、ミストレスは百パーセント奥様のものです」


「か、仮にあの会社が妻のものだとして!それならDGと取引先の関係を利用して私的な会社に利益を流すのはDGに対する背任行為だ!」


「逆です。サブリナ代表はミストレスの飼料販売でDGの取引先に恩を売りました。それによってDGの仕入れ規模は拡大しています。大きな恩恵を受けているのはDGの方です」


「俺の妻だから銀行から融資が受けられるんだろう!デイモン家じゃないただの女に誰が金を貸す??」


「ロイヤルシティ銀行はDGとは取り引きが無いでしょう。ミストレスとDGに資本関係が無いことは当然確認した上で、サブリナさんの手腕に対して融資しているのです」


「何が手腕だ!あいつはただ母に言われた通り帳簿をつけて、客にペコペコ頭を下げて回ってるだけだろう!」


 出た。何のひねりもない台詞。


「誰にでも代わりが務まりますか?もう散々やってみたんでしょう?誰かに代わりが務まりましたか?今のDGは奥様がいた時と同じように動いていますか?」


 アクセル氏はグッと言葉に詰まる。夫人なしで会社が回らないことなど、彼もとっくに気付いているのだ。ただそれを認める器量が無いだけで。


「これまで任せっきりで何も問題が起きなかったから簡単だと思っていたんでしょう?問題が起きなかったのではなく、起こさなかったんです。あなたの奥様が。舵取りが代わった途端にどうなるか、もう嫌というほど思い知ったでしょう。だからこんな大げさな騒ぎまで起こして、なんとか奥様を引き止めたかったんじゃないですか?」


「だっ、誰が……!!」


「残念ながら離婚に関しては話し合う余地は無いそうです。家に戻るつもりは無いと。ただ、奥様もご自分が今まで必死に守ってきたDGがこのまま暗礁に乗り上げるのは見るに忍びない。そこで……一つ提案を預かってきました」


 一通の契約書を取り出す。


「しばらくの間なら、奥様は顧問としてDGの面倒を見てもいいとおっしゃっています。もちろん有償ですが」


「はぁ!?何をふざけたことを……自分の妻に金を払って会社を任せる馬鹿がどこにいる!?」


「妻なら黙ってタダで手柄を差し出せと?……しかし奥様はもうあなたの妻でいるつもりはないのです。手助けが必要なら正当な対価が必要になります。その契約書にサインを」


「年間顧問契約料……ソフィ金貨一万枚だと!??正気か!!DGの年間収益の一割だぞ!?」


「ライバル社のグロスターなら喜んでその二倍払うと思いますが」


「なっ!?ま、まさか……」


 アクセル氏が顔色を失う。その可能性を今まで考えもしなかったとは、ずいぶん呑気な話だ。この期に及んでまだ夫人が自分の従属物だと思っているのだろうか?だが選択権を持っているのは夫人の方なのだ。


「もちろんただの例え話です。仮にそんな話があっても奥様は相手にしないでしょう。しかしミストレスの取引先をDGから引き剥がせるなら、その金額を支払う人間は他にもいると思いますよ?」


「そ、それは…………」


 サブリナ夫人は夫を見捨てはしても、会社を裏切りはしないだろう。自分が手塩にかけて育てた子供のようなものだ。しかしアクセル氏は一度頭に浮かんだその可能性を、もう頭から追い払えない。


「奥様がこの契約書を私に預けた意味が分かりますか?交渉をするつもりはないということです。金額の再考も条件の追加も無し。つまり……」


 私は決断を迫った。


「これが最初で最後の提案です」



*



 ひと月後、私は王都のカフェでサブリナ夫人と再会した。例によって席に着いた途端に怒涛の世間話が溢れ出す。一気に会話のペースを持って行かれてしまうのだが、それをむしろ快いと感じるのは彼女の人柄のおかげだろう。


「おかげさまで無事に離婚が成立したわ。離婚を無事って言っていいのか分からないけど。あなたがいろいろ入れ知恵してくれたおかげね。ありがとう、本当に助かった」


「離婚調停のお手伝いをしたわけではありません。ただ揉めそうなところを前もってクリアにしておきたかっただけです」


「お手数をかけたわ」


「それが私の仕事です」


 愛想の無い私の返事を夫人はフフッと面白がった。


「それにしてもまさかあのアクセルが私に向かって頭を下げるなんてね。靴紐を結ぶ時だってあり得ないのに。一体どんな魔法を使ったの?」


 運ばれてきた紅茶に角砂糖を入れてかき混ぜながら、私は頭を上げたまま靴紐を結ぶアクセル氏を想像した。


「自分が置かれた状況をありのまま理解していただいただけです。まだ取り返しがつくうちに気付けたのですから、ご主人は幸運だったと思いますよ。……失礼、ご主人ではありませんでしたね」


「本当にね。もう気分がスカッとしちゃった。会社に来るたび毎週謝ってもらおうかしら?」


 冗談ですよね?とはあえて聞かなかった。


「いいんじゃないですか?紅茶のポットが冷める頃には、最初の一口で火傷をしたことは忘れてしまいますから」


「あなたいいことを言うわね」


 二人で一口紅茶を飲んでから、顔を見合わせて笑った。


「そういえばこの間、息子の婚約者に会ってきたわ」


 夫人――ではなくサブリナさんは話題が変わるペースも早い。


「ご結婚されるんですか?」


「まだまだよ。まずは会社の仕事を覚えて、社交界でも少しは顔を知られるようになってからね。一体何年かかるやら」


 やれやれ……と肩をすくめながらも、口調は楽しそうだ。


「ご子息にお仕事を引き継ぐんですね」


「それはそうでしょう。それとも私も奥様にならって、嫁いできたお嬢さんに全部叩き込もうかしら?」


 これは冗談であることを願う。幸い、目は笑っている……と思うのだが。私の探るような目を見て、サブリナさんは安心しろというように声を上げて笑った。


「いい子だったわよ。息子はちょっと気の弱いところがあるから、あれぐらいはっきり物が言える子がいいわね。話が合いそう」


「それは何よりです」


 不幸な歴史が繰り返されなくて何よりだ。いや、不幸とも言い切れないか。婚約者のご令嬢にサブリナさんほどの資質があれば、王国の商業界にとっては大きなプラスとなったかもしれない。そんな例はそうそうあることではないが。


「会社が手を離れたら私、西大陸に行きたいと思ってるの」


 また唐突に話題が変わる。


「ミストレスはどうするんですか?」


「息子に任せてもいいし、向こうに引っ越すのもいいかもね。これからの商売はあっちが中心になる。間違いないわ。せっかく奥様が好きにやりなさいって言ってくれたんだから、これだと思ったことは全部やってみるつもり」


 どこからこんなに元気が湧いてくるのか。夫という枷が外れたサブリナさんは、もはやDGという大商社の枠にも収まっていられないらしい。


「大奥様も天国でお喜びでしょう。まだまだ退屈していられませんね」


「だといいけど」


 サブリナさんは目を細めて私を見た。


「あなたには何かお世話になったお礼がしたいわ」


「お世話はしていません。仕事をしたんです」


「頑固ね」


「法務省の書記官ですから。言葉は正確に選ばなければ」


「それにしたって……法務省の書記官さんが普通、こんなことまでしてくれるものかしら?帳簿を確認するところまでがお仕事だったんじゃないの?」


 それはそうだ。痛いところを突いてくる。


「確かに……少し出すぎたことをしたかもしれません。結局、私は私で好きなようにやっているだけなのです」


「それは何より。そういう人、大好きよ」


「光栄です」


 照れ臭くて気障に頭を下げてみたが、私も彼女に対して同じような親しみを感じていた。





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― 新着の感想 ―
女一代記って感じですね。
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