軌道修正
「ねえ! 国際宇宙ステーション! 今夜、見えるんだって!」
そう言う君が余りにも嬉しそうに笑うから。
宇宙だの、天体だのなんて、全く興味無いのに。
ちょっと、いいかなって。
思ってしまったんだ。
「うー……。さみーなぁ……」
はあ、と吐き出した息が白く立ち昇る。季節は真冬。凍えるような寒さも当然のことだった。
「珈琲でも買って来れば良かったね」
隣から苦笑交じりに答えるのは、俺の幼馴染。カシミアだろうか。ふんわりと柔らかそうな白いマフラーがよく似合っていた。
「何時だっけ、見えるの」
「二十時九分頃だよ」
「まだ三十分もあるのか……」
絶対に見逃さないように、と早目の集合時間にしたのが裏目に出た。近くに喫茶店でもあれば良かったが、生憎、此処は周囲に街灯の殆どない公園だ。待ち時間のことなど頭になかったため、少しでも観測し易いように商店街から離れた場所を選んでしまった。コンビニどころか自販機すら見当たらない。げんなりとした俺に、ごめん、と相手が返す。
国際宇宙ステーションが見たい、と言い出したのはこの幼馴染だった。
此奴は昔から夜空を見上げるのが好きな奴だった。俺はその楽しさについて皆目見当がつかなかったが、無心に星やら月やらを眺めていると悩み事も溶けていくようで落ち着くらしい。
そんな幼馴染は今日の昼、いつもの通り待ち合わせていた大学の食堂に現れるなり、天体観測の誘いを持ちかけてきた。それに間髪入れず賛同したのは、俺ではなかった。
ヴヴッ。
急なバイブ音に思考を遮られる。
「あ、遅れるって」
そう言われて俺もウエストバッグからスマートフォンを取り出し、メッセージを開く。
『悪い! バイト長引いた! 二十分くらい遅れる!』
それは観測に大賛成だった件の友人であり、俺にとっては親友と呼べる存在であり、俺の幼馴染にとっては大事な、大事な、恋人からの連絡だった。
『遅れてもまだ余裕あるから大丈夫だよ。気をつけて』
隣で返されるメッセージ。ちり、と灼けるような痛みには気付かない振りをした。
この想いを自覚したのは小学生の頃。それが本格的な恋であると気付いたのは中学生。俺たちが彼奴に出会って三人になったのも中学で、二対一の関係に分かれたのは高校生の時だ。そしてそれを引き摺ったまま、俺たちは揃って大学生になった。しかも、同じ大学の。
そういえば、どうして今の大学を選んだのか、俺等の間で話題になったことがあった。その時の俺は、経済を学ぶにはこの大学が良かったなどと在り来たりな回答をして、本当の理由をはぐらかしてしまった。一緒に居たくて同じ大学を選んだと言ったら、真面目な君はきっと、そんなことで大学を決めるなんて、と怒っただろうから。言えなかったけれど、君と居られるのなら、何でも良かったんだ。駄目な大学生の典型かもしれないが、それでも。
でもなあ、お前の大好きな彼奴だって、お前と一緒にいるために背伸びして大学を決めたんだぞ。まあ、それでも適当な俺とは違って、彼奴の場合はちゃんと興味のある農学部を選んでいたのだけれど。
そう、彼奴と俺は違うのだ。何処か芯の通った彼奴と、流されるように生きてきた俺。だから君は彼奴を選び、俺を選ばなかった。俺は告白すらしていないのだから、選ぶ選ばない以前の問題かもしれないが。
今日の事だって、俺は賛成するつもりだったのだ。興味関心の薄い事柄だったから、ほんの一瞬、逡巡してしまっただけで。だって特別な感情を抱く相手からの誘いだ。行きたくないわけ、ないだろう。例えそれが二人きりの約束でなかったとしても。
だけど、迷わず応えられなかった自分は失格だった。やはり感性の合う合わないは重要なのだ。
ああ、それでも本当に。君が嬉しそうだったのが、俺は嬉しかったんだ。だから行きたいと思った。知らない世界を少しだけ覗いてみたいと思った。
君に連れて行ってほしかったんだ。
ふいに、ダダダダダッと地響きと呼べそうな騒がしい音が猛スピードで近づいてきた。
「遅れてごめん!」
はあはあと息を切らしながら走ってきた彼奴は、左手にコンビニ袋を提げていた。
「間に合って良かった! まだ見えてないから大丈夫」
ほっとしたように笑い掛ける幼馴染。ごめんなぁ、といいながらポンポンと頭を撫でる彼奴。俺は自身があまり感情が顔に出る質でないことに感謝した。
「お詫びに肉まんとあんまん買ってきた! どっちがいい?」
「えっ、そんな、気にする事ないのに……」
「俺の気が済まないからさ。肉まん二個とあんまん一個にしたけど……。どうする?」
「あー、じゃあ俺、肉まんで」
二人が好きな方を選べるように、肉まんと答える。それに俺はどっちかというと肉まんの方が好きだし。
「りょーかい。ほれ」
「ん、さんきゅ」
彼奴が手渡してくれたそれは、まだ熱々だった。これは相当急いで走ってきたな。
「さ、どっち?」
くるりと幼馴染の方へ振り返って尋ねる彼奴。
「んーと、んーと……。好きな方、先に取って?」
小首を傾げてそう告げる相手に、ふっと表情を緩めると彼奴は。
「じゃあ、俺とそれぞれ半分こな」
「あ、ありがと……」
恥ずかしかったのか、暗がりでも分かる程に顔を赤く染めるのが見えた。
そうきたか。何処か他所でやってくれないだろうか。ヒリヒリと痛む胸が、まるで塩酸に溶かされるマグネシウムのようだ。ふと、いつかの理科の実験を思い出す。不可抗力とは言え、あの時はごめんな、マグネシウム……。お前の痛み、分かるよ……。
俺が思考を明後日の方向に飛ばして現実から目を逸らしていたその時だった。
「あ、あれ」
指差す先に明るい一点の光。
「おー」
待ちに待った宇宙ステーションだ。二人が感嘆の声を漏らす。
あそこに人が居る。あんな空の彼方に。それは不思議な感覚だった。
あそこの搭乗員たちは俺たちのことを知らない。俺たちが見ていることも知らない。
そんな人々を乗せて、宇宙ステーションは廻っている。
皆既日食ほど珍しいわけでもないのに、何故これほどに感動を呼ぶのか。
何を思って目の前の二人があの光を見ているのか、俺には分からない。
けれども、今、この瞬間。俺たちは確かに同じものを共有していた。こんな機会は、あと何度あるのだろうか。
俺たちが一緒に居られる保証がある時間は、もうあと二年と少ししかない。今は良くても、その先のことは分からない。近い将来、就活するなり、大学院に進むなり、それぞれの道を定めることになるのだろう。ああでも、この二人はお互いの手を離すことはないのだろうな。
自分はどうなのだろう。どうしていくだろう。どうすれば、いいのだろう。
じっと遠くの光を見つめれば、それは鋭利な小刀ですうっと細く細く空を切り裂くように、ぶれる事なく軌道を進んでいく。雁字搦めの俺には、その小さな光が随分と眩しく映った。
流れ星よりも遅く、想像していたよりもずっと速い速度で、宇宙ステーションは住宅街の向こう側に真っ直ぐに落ちていく。それが建物の陰に消える直前、思わず願った。
流れ星が願いを叶えてくれるなんて信じていないし、そもそも宇宙ステーションは人工物だ。星ですらないのに願うのも可笑しいけれど。
どうか、出来ることなら、来年も、再来年も、その先も。
この三人が繋がっていられますように。
君と一緒に、笑い合えますように。




