兄からのプレゼント
昼下がり、ユキはいつものようにやる事もなくベッドに足を投げ出していた。
外の喧騒が遠く、時間だけが薄く伸びているような感覚。埃が光に溶け、空気がゆっくりと揺れている。
ノックもなく開いた扉から、agjtmが当然のように入り込んでくる。
まるで自分の部屋のような自然さで。
片手には黒い箱が抱えられていた。
悪びれない笑み。だが、目だけがユキの表情を1ミリも逃さず観察している。
「暇?」
答えを待たずにベッドへ腰を下ろし、箱を置く。その所作が自然すぎて、拒絶のタイミングを奪われる。
「なにそれ」
「兄から妹にご褒美」
即答だった。迷いも間もない。
「……いらない」
警戒心を持って返すが、agjtmは何も気にしていない。
「俺が見たいだけ」
さらりと言い、蓋を開ける。
中に収められていたのは、上品な黒のワンピースだった。
光を吸うような生地。装飾は控えめだが、計算され尽くしている。
布面積はある。首元は詰まり、袖も長い。露出はかなり少ない。
だが胸元は立体的に縫製され、縦のラインが自然と中央へ視線を誘導する設計になっている。腰はきゅっと絞られ、裾へ向かって緩やかに広がるが、生地は柔らかく、身体の輪郭を完全には隠さない。むしろ際立たせる。
「似合うと思う」
「なんで私に」
一瞬だけ、agjtmの視線が落ちる。
「胸、あるし」
空気が止まる。
ユキの頬が熱を帯びる。
自分が女であることを自覚させられる、その瞬間が一番腹立たしい。
「……最低」
睨む。だがagjtmは肩をすくめるだけだ。
「事実だろ。隠しても変わらない」
視線が自然に落ちる。胸元へ。
咄嗟にそこを隠すように腕を組む。だがそれで余計に持ち上がる形になり、強調される。
分かってしまう。どう見えているか。
「着ない」
「じゃあ想像する」
「……は?」
「それ着たユキが目の前で回ってるとこ。俺が勝手に想像する。そっちの方が、好きにできるし」
その一言で、身体の奥がひやりとする。
触れられていないのに、境界を越えられたような感覚。
ユキは舌打ちの代わりに箱を掴んだ。
「……ちょっと待ってて」
バスルームの向こうへ消える。
しばらくして衣擦れの音。
ユキは鏡の前に立っていた。
布地が吸い付くように肌をなぞる。
想像以上に立体が浮き上がる。
腰が締まり、背筋が自然と伸びる。呼吸が浅くなる。
見慣れているはずなのにどこか違う。
胸の丸みがはっきりし、腰が細く見える。生地が柔らかいせいで、わずかな呼吸の上下も強調される。
隠していたつもりの身体が、急に輪郭を持つ。
(なにこれ……)
怖い。
だが、ほんのわずかに高揚する自分もいる。
あの男は、どんな反応をするだろう、と。
「いいよ」
戻ったユキを見て、agjtmの笑みが消えた。
視線が、ゆっくりと動く。
脚から、腰、胸元、喉、顔。
値踏みではない。確認でもない。ただ、侵食していくように。
何も言わない数秒がやけに長い。
「……やばい」
低く落ちた声に、さっきまでの軽さはなかった。
「なにが」
平静を装ったつもりなのに、声の端がかすかに揺れる。
「その見た目で、その服は反則だろ」
agjtmが一歩近づく。
たったそれだけで、胸元のあたりがじわりと熱を帯びた。
まだ何もされていない。触れられてもいない。
なのに、見られている場所だけ先に敏くなるのが悔しい。
「ちゃんと確認しないと」
「何を」
「ライン」
そう言いながら、視線はまるで隠す気もなく胸元に落ちたままだった。
「兄が選んだ服なんだから、責任あるだろ」
真顔で言う。
ふざけているようで、その目だけは全然笑っていない。
むしろ、笑えないくらい見入っているのが分かってしまって、ユキは余計に腹が立った。
「……一回だけ」
ユキは息を浅く吸い、ゆっくりと身を翻す。
スカートがふわりと揺れる。
横を向いた瞬間、胸の立体がいっそうはっきり浮かび上がった。
柔らかい生地がぴんと張り、自分の形を正直に映してしまう。
その瞬間、agjtmの呼吸が止まったのが分かった。
ほんの一瞬。
けれど確かに、息を呑んだ気配があった。
視線が背中から腰へ、そこからまた胸元へ戻ってくる。
急がない。舐めるみたいに遅い。
見られているだけなのに、そこだけじわじわと熱が集まっていく。
「止まって」
短い声で足が止まる。
agjtmは横からじっと見た。
腰から胸へ、胸から喉へ。
視線だけで輪郭を辿るその遅さが、妙に生々しい。
「……だめだろ、これ」
掠れた声だった。
小さく喉が動く。
そのまま何か言いかけて、agjtmは一度だけ口を閉じた。
飲み込んだのだと分かる。
衝動か、言葉か、それともその両方か。
「……なぁ」
顔を上げると、目の色が変わっていた。
いつものふざけた兄の顔じゃない。
熱を押し殺しているのに、押さえきれていない目だった。
「もう一回」
「は?」
「今度は、もっとゆっくり」
低い。
わずかに掠れていて、命令というより、我慢の果てに落ちた声だった。
怖い、と思った。
それなのに、その視線から逃げられない。
ユキはもう一度回る。
今度はさっきよりもずっとゆっくりと。
布が脚にまとわりつき、遅れて離れる。
呼吸に合わせて胸元がわずかに上下するたび、生地が擦れて、自分でも意識せずにいられない。
その細かな動きを、agjtmは一ミリも見逃さなかった。
ごくり、と喉が鳴る。
今度ははっきり聞こえた。
agjtmの喉だった。
それに気づいた瞬間、ユキの胸の奥がどくりと跳ねる。
「……外に出したら三秒で囲まれる」
「うるさい……」
「守ってほしい?」
その一言で、身体がぴくりと反応した。
守る。
その言葉の奥にあるのが、庇護じゃなく独占だと分かる。
分かっているのに、胸の奥のやわらかいところがかすかに震える。
agjtmの手が伸びる。
反射的に身構えたのに、指先は胸のほんの手前でぴたりと止まった。
近い。近すぎる。
あと少しで触れる。
その距離のまま、指先だけが微かに震えた。
一瞬、agjtmが目を伏せる。
それから、触れないまま手の位置をわずかにずらした。
触れたいのに、触れないようにしている。
その不自然な慎重さが、かえって露骨だった。
「……縫製、ちゃんとしてるな」
低く囁く声が、わずかに熱を帯びている。
平気なふりをしているのに、全然隠し切れていない。
見ているのは服じゃない。
それくらい、もう分かる。
「やめて」
拒絶したかった。
なのに出た声は驚くほど細くて、懇願みたいに響いた。
「……やめた方がいい?」
その問いに、ユキは息を止める。
agjtm自身も、それ以上いったらまずいと分かっている。
分かっていて、確認している。
やめるためじゃない。
どこまでなら耐えられるか、自分に言い聞かせるみたいに。
「触ってない」
その一言は、ユキに向けた言い訳でもあり、同時に自分への制止にも聞こえた。
触っていない。
まだ。
指先は空中にある。
けれど、縫い目をなぞるふりをしてゆっくりと滑るたび、肌と布の境目だけが勝手に熱を持つ。
空気越しに撫でられているみたいで、息が苦しい。
ほんの少しでも前へ出れば、触れてしまう。
そのぎりぎりで止まり続ける執拗さが、たまらなく卑怯だった。
「なんでそんな顔してんの」
「……知らない」
「俺のせい?」
答えられない。
喉の奥が詰まり、言葉にならないまま見上げると、agjtmはゆっくり笑った。
けれど、その笑みもいつもより浅い。
余裕の顔をしているくせに、目だけが少し苦しそうで、そこにぞくりとする。
「その顔、覚えとく」
胸元を整えるふりをして、指先がするりと下へ落ちる。
触れたのか、触れていないのか、自分でも判別できないぎりぎりの線。
でも、その曖昧さがいちばん悪質だった。
責めることもできないまま、身体だけが確かに反応してしまう。
そして、その指先がまた止まる。
最後の一線だけは越えない。
越えられないのではなく、越えないように噛み殺しているのが分かる。
「……兄の仕事終わり」
冗談めかした台詞のくせに、最後だけ声が少し硬い。
ここで終わらせないと、自分が危ないと分かっているみたいだった。
agjtmは踵を返してドアへ向かう。
背中はいつも通りに見えるのに、ドアノブにかかった手だけが一度、強く握られた。
扉を開ける寸前、一度だけ振り返る。
「俺の前でだけ着ろ。妹」
その声音は低く、静かなのに有無を言わせなかった。
独占欲を無理やり平らに均したみたいな声だった。
扉が閉まる。
静けさが落ちてくる。
でも部屋の空気はまだ熱を孕んだままだった。
さっきまでそこにいた男の我慢だけが、見えないまま残っているみたいに。
ユキは胸元を押さえた。
指先がかすかに震えている。
触れられていない。
はっきりとは。
それなのに、皮膚の表面じゃなく、その奥だけがじくじくと熱を持っている。
息を吐くたび、胸元の布が擦れ、そのたびにさっき寸前で止まった指先を思い出す。
「……最悪」
吐き捨てるように呟いて、鏡の前に立つ。
黒いワンピース。
胸の丸みも、腰の線も、隠すどころか際立たせていた。
露出なんてほとんどないのに、むしろ何も隠せていない気がする。
見られたくない。
なのに、見られるために作られたみたいな服で。
しかも、それが似合ってしまっている自分がいちばん腹立たしい。
“俺の前でだけ着ろ”
耳の奥で、あの声がもう一度響く。
独占。
線を越えないふりをしながら、越えないために必死なくせに、それでも自分のものみたいに囲い込んでくる。
そのくせ――回ったのは、自分だった。
拒めたはずなのに。
脱いで突き返すことだってできた。
本気で怒ることも、できた。
なのに、しなかった。
「……なんで」
喉の奥がきゅっと締まる。
「守ってほしい?」
あの一言に、身体が先に反応した。
怖かったからじゃない。
それだけなら、こんなに苦しくない。
悔しい。
読まれたことが。
揺れたことが。
あの男に、自分のどこが反応するのか見抜かれたことが。
そして何より、触れないまま耐えていたあの目に、ぞくりとしてしまった自分が――たまらなく腹立たしい。
ユキはゆっくりとベッドに腰を下ろす。
胸元を押さえたまま目を閉じると、まだ熱が残っているのが分かった。
消えない。
簡単には、消えてくれない。
でも、次は違う。
次は、あの余裕の顔を崩してやる。
耐えているふりをしていた目も、最後まで触れなかった指先も、全部。
そのためなら、この悔しさごと使ってやる。




