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アンテナと、差し入れ。

夜の外縁部は、しんと冷たい静寂が広がっていた。


旧ダンジョン、崩落した塔の裏手。

シェルターへの帰路、麻婆豆腐が偶然見つけたその場所に、人影はない。

NPCはおろか、物好きなプレイヤーすら寄り付かない場所だ。


今日も彼は、空間に浮かぶ「歪み」を確かめるために足を運んでいた。


「……あった」


揺らぎは、以前より明確に質量を増している。当初は拳大ほどだったそれは、今や人の頭ほどに膨らみ、水面のような波紋を虚空に描いていた。


「……はは、成長してんじゃん」


冗談めかして呟いたが、視線は鋭く据わったままだ。ポケットから取り出したスマホは、この世界では単なる多機能なメモ帳に過ぎない。

画面右上の表示は、相変わらず無機質な圏外の文字。


その時だった。


――ピッ。


電子音が鼓膜を叩く。

一瞬、瞬きよりも短い刹那。


アンテナのピクトが、一本だけ、確かに立った。


直後、表示は無慈悲に『圏外』へと引き戻される。麻婆豆腐の思考が凍りついた。


「……は?」


一瞬、心臓がドクンと脈打つ。

見間違いか。

再び確かめるために、亀裂に一歩踏み込み、スマホを高く掲げた。


角度を変え、腕を伸ばす。

だが、画面は沈黙を守ったまま。二度目の奇跡は起きない。


塔の壁面がきしむ音だけが、夜風に乗って不気味に響く。


「……まじ、かよ……」


掠れた声が漏れた。

バグか、光の反射でそんな風に見えたのか。

理屈だけ並べるなら簡単だ。

だが、この場所で確かな事が起きた。


もし、今のが錯覚でないのなら。


この亀裂の先は、どこか「あちら側」に繋がっているのではないか。


根拠も確証もない。なのに麻婆豆腐は、その淡い期待を手放せずにいた。


「……誰にも言わねーほうが、いいか」


脳裏をよぎったのは、先ほどまで言葉を交わしていたユキの顔だ。

――あいつは、帰りたがっているだろうか。

期待だけさせて突き落とすのは、あまりに残酷だ。


「くそ、もう一回出ろよ」


祈るように呟くが、スマホは『圏外』という表示のまま。

亀裂はただ、静かに揺れている。


彼はしばらくその場に立ち尽くし、やがて諦めたようにスマホをポケットに戻した。


「……気のせい、だよな」


そう自分に言い聞かせるが、足取りはどこか浮ついていた。

胸の奥に灯った小さな火が、どうしても消えてくれない。


帰り道、何度も画面を確認するが、何も変わらない。


それでも、脳裏に焼き付いたアンテナの一本。


「……これ、帰れるんじゃねーの?」


誰にも届かない問いが、夜の闇に溶けていった。



―――

その頃。


モユルは壁際に身を寄せ、手の中の小さな包みを握りしめていた。


街の外れで手に入れた、質のいい干し肉だ。脂の乗りも、塩加減も、保存食としてはこれ以上ない一品。


(……これくらいなら、重くない)


恩着せがましくない、ただの食料。

ユキの部屋の前で、彼女は足を止めた。漏れ出る灯りと、微かな人の気配。

モユルはノックをせず、ドアノブにそっと包みを掛けた。音が立たぬよう、慎重に、祈るように。


……これでいい。


名乗る必要はない。気づかれなくていい。

ただ、ユキが空腹を感じたとき、そこにあればいい。


廊下の角を曲がろうとした瞬間、乾いたドアの軋み音がした。


「……? なに、これ」


ユキの声だった。少し掠れた、戸惑いの混じった響き。

包みを開く紙の音。干し肉を取り出す気配。


「……差し入れ?」


沈黙が流れる。やがて、微かな咀嚼音が聞こえてきた。


モユルの喉が、無意識に上下する。味はどうだろうか。不快ではないだろうか。


「……ちゃんとしてる」


ぽつりと、独り言が漏れた。


「麻婆豆腐じゃないな、これ。あいつ、もっと適当だし」


小さく笑う気配。その柔らかな声音が、至近距離で触れられたかのようにモユルの胸を熱く焦がす。

包みを畳む音を背にして、ようやく足を動かした。


振り返ってはいけない。顔を見れば、この静かな決意がすべて崩れてしまう。


守ると決めたのだ。名乗らず、ただの傍観者という立ち位置で。


(……食べてくれた)


それだけで、今日を終える理由には十分だった。

影に溶けるように廊下を曲がり、小さく息を吐く。


翌日。


同じ場所に、丁寧に畳まれた空の紙だけが置かれていた。

文字はない。けれど、そこに込められた「ごちそうさま」の意図を、モユルは指先でなぞる。


モユルは何も言わなかった。

ただ、胸の奥に残った静かな熱を噛みしめる。


(……また、置こう)


名乗らぬまま。気づかれぬまま。


二人の間に流れる、言葉のない温度だけを頼りに。


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