好きだ
ユキの部屋の扉が、わずかに開いていた。
「やだ!もうその干し肉いらないってば」
中から笑い声が漏れている。落ち着いた、でも遠慮のない声。ユキだった。
ナカジマの足がピタリと止まる。
「あ?俺が丹精込めて焼いた干し肉を馬鹿にすんのか」
続いて、麻婆豆腐の声が重なる。言葉の端々に棘はあるが、そこには警戒がない。
「やっぱりあんたの手作りなんだ。道理でまずいわけね」
ノックをするつもりで上げた手が、そのまま宙で固まる。
笑っている。
ユキが、心の底から。
初めて見た。あんな笑い方。
普段のユキは、どこか緊張している。肩を強ばらせて、視線は俯いてるのがデフォだ。
扉の隙間から、室内がわずかに見える。
ベッドに腰掛けるユキ。床にあぐらをかく麻婆豆腐。近くもないし、遠すぎない。ちょうどいい距離感を保ってる。
あいつの前では、力が抜けている。
その事実が、ナカジマの胸をざらつかせる。
――最近、仲がいい。
自覚している。そして、その感情の名前も分かっている。
くだらない、と自分で思う。
今までそれなりに恋愛はしてきた。
それに、相手は十代のガキだ。28のオッサンがみっともない。
でもユキの前では、冷静でいられない。
ナカジマは、上げていた手をゆっくりと下ろした。
今ここで扉を叩けば、会話は止まるだろう。
ユキは姿勢を正し、表情を整え、目すら合わせない。
実際見なくても、予想がつく。
邪魔をする必要はない。ユキがああして笑っていられるなら、それでいい。
でも、そんなのは建前だ。本音は醜い。
俺を見て欲しい。
他のやつなんかに笑いかけるな。
俺だけに笑いかけて欲しい。
……それができないなら、閉じ込めたい。
その衝動を、ぎりぎりで押し留める。
それをやった瞬間、ユキは二度と笑顔を見せてくれない。
壊れたユキが欲しいわけじゃない。
欲しいのは、笑っているユキだ。
自分の隣で。
それが一番難しいことだと、理解している。
ナカジマは静かに踵を返した。足音を立てないように歩きながら、無意識に唇を噛む。甘くも苦くもない味が、口内に広がる。
大人でいなければならない。少なくとも、ユキの前では。
「……大人になれ」
小さく呟く。自嘲が混ざる。
全部自分のものにしたいのに、何ひとつ奪えない。
矛盾だらけだ。
それでも越えない。一線だけは。
廊下の奥へと歩みながら、ナカジマは一度だけ立ち止まり、深く息を吐いた。
――五月雨のバス停の事を思い出す。
雨に濡れた制服姿のユキ。
こちらを見つめる澄んだ瞳。
『壊れちゃいますから』
あの日からずっと自分の時間は止まったままなのかもしれない。
壁に拳を押し付ける。
「好きだ」
呟いた言葉は鉄の味がした。




