覚え込まされる
ナカジマが廊下の角を曲がった瞬間、agjtmと視線がぶつかった。
軽い足取りで部屋から出てきたその男は、いつもの余裕の笑みを浮かべている。
だが、その笑みには妙に機嫌の良さが滲んでいた。
「よ」
軽い声だった。
ナカジマは一瞬だけユキの部屋のドアへ視線を向ける。先程までagjtmがどこにいたのかは、考えるまでもなかった。
「中にいたのか」
その声に揺れはない。感情を切り離して問いかけている。
「まあね。困ってそうだったから助けてあげた」
わざとらしく肩をすくめる。
ナカジマの目が、ほんのわずかに細くなった。
「触ったのか」
問いというより、事実確認だった。
その言葉に、agjtmは口角を上げる。
「触ってないって言ったら嘘になるかなー?」
その瞬間、廊下の空気が目に見えて凍りついた。
だがナカジマは怒りを叩きつける事はない。ただ一歩、静かに距離を詰める。
「次はない」
真っ直ぐ射るような視線がぶつかってくる。
だが、視線よりも言葉に、agjtmの笑みが消えた。
「おーこわ」
茶化すように言い、肩をすり抜ける。
(お前のものでもねーだろ)
そう言外に残して、足音は廊下に溶けていった。
ナカジマはドアの前に立つ。すぐにはノックしない。
目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
胸の奥に残った怒りを、肺の奥まで沈めるように。
次に目を開いたときには、感情はすべて押し込められていた。
それから、二度だけ扉を軽く叩く。
「ユキ」
中から少し遅れて返事があった。
「……ナカジマ?」
声が細い。掠れている。
「入っていいか」
数秒の沈黙が落ちる。
「……うん」
静かにドアを開ける。
部屋の空気は、どこか湿った熱を孕んでいた。
ユキはベッドの端に座っている。
ナカジマが入ってきても、視線は上がらない。
ただ爪が白くなるくらい、シーツを強く握っていた。
ナカジマは部屋に入るが、すぐには近づかず、一定の距離を保ったまま立ち止まる。
「さっき、agjtmが出ていった」
その名前に、ユキの肩がわずかに震えた。
「……うん」
「触られたか」
責める意図はない。淡々とした事実確認だ。
ユキは少し迷ってから、小さく頷く。
ナカジマの喉がわずかに動く。奥歯を噛み締める力が少し強くなる。
だが怒りは表に出さない。
代わりに視線を落とし、声を落とした。
「嫌だった?」
沈黙。
ユキは唇を噛む。言葉を探すが、自分の感情がうまく整理できない。
「……こわかった」
それが一番近い言葉だった。
「でも」
そこで止まる。
ナカジマは急かさず、続きを待ち続けた。
しばらくして、ユキの口がゆっくり開く。
「……変だった」
視線は布団を掴む指を見つめたまま。
「身体が、言うこと聞かないみたいで」
話すたび、呼吸が浅くなる。
さっきagjtmに触れられた場所が、また熱を思い出して脈打つ。
「嫌なのに、心臓おかしくて…」
ナカジマの指がわずかに握られる。だが近づかない。
衝動を抑えたまま、静かに言う。
「それは、恐怖だ」
ナカジマの言葉に、ユキの視線が初めて揺れる。
「身体は正直だ。感情とは別に動く」
落ち着いた声だった。
「自分を責めないでいい」
ユキの肩が、ほんの少しだけ下がる。責められなかったことへの安堵だった。
ナカジマはそこで初めて一歩近づく。だが触れはしない。
しゃがみ込み、視線を合わせるだけだった。
「俺は」
静かに続ける。でも瞳はユキを逃さない。
「ユキを怖がらせない」
「触らない。今は」
その二文字が、部屋の空気を変える。
ユキの喉が小さく鳴った。
「今は、ってなに…?」
絞り出すような、かすれた声。
恐怖の中に、ほんの少しの好奇心が混じっている。
ナカジマの目が、ほんのわずかに変わる。
一瞬ほどけかけた理性を、もう一度引き締める。
「……男だから」
短い言葉だった。
でもその一言で、ユキの心臓がこれ以上ないくらい強く跳ねた。
怖い。
agjtmとは違う。
押し付けないし、奪おうともしない。距離も守ってる。
それなのに、“オス”の瞳が自分を捕らえて離さない。
「……こわい」
率直な言葉だった。
ナカジマは、その返答をわかっていたように頷く。
「そうだろうな」
否定しない。
「でも逃げないで」
穏やかな声で続ける。
「怖いなら、ちゃんと怖がっていい」
甘やかさない。だが突き放さない。
「俺以外は見なくていい」
支配する気はない。
それでも、明らかな独占の匂いを含んでる。
ユキの唇が震える。喉は渇いてるのに、吐息が甘くなる。
触れられていない。それなのに、身体が熱い。
「……なんで」
やっと絞り出せた声は、水滴のように頼りなく濡れていた。
「そんな顔するの」
ナカジマはわずかに笑った。
「我慢してるから」
低く、押さえ込んだ声。
その一言が、ユキの背筋に熱を走らせた。
意識が、目の前の男へと吸い寄せられていく。
それがナカジマにも伝わったのか、一瞬だけ、その指先がユキの顎に触れそうになる。ほんの数センチの距離だった。
だが空中で止まる。
理性が阻止する。
「触らないって言った」
自分に言い聞かせる声だった。
ユキの指がシーツを強く握る。
怖いのに、目が逸らせない。
逃げたいのに、逃げたくない。
ナカジマは立ち上がる。距離を戻す。
背を向ける直前、もう一度だけ振り返った。
「俺からは何もしない」
前から決めていたことのように言う。
「でも、逃げるなよ」
命令ではない。それでも選択肢を優しく奪い取ってくる。
ドアが静かに閉まる。
それと同時に、ユキは力なくベッドに倒れ込んだ。
太腿の内側から感じる熱を誤魔化すように、ゆっくりと膝を擦り合わせる。
薬指が、唇をなぞる。触れる吐息が熱い。
触れられていないのに、身体に覚え込まされてる。
「……なに、これ」
こぼれるような呟きが、部屋に溶けていく。
ユキは目を閉じる。
怖い。
でも、次を待っている自分がいる。
それが、いちばん怖かった。




