アンテナ
セーフティゾーンは、表面上はいつもと変わらない姿を取り戻していた。
朝の騒ぎが嘘だったかのように、穏やかな風が吹き、本物そっくりの青空が頭上に広がっている。
危険は排除され、暴力は無効化され、秩序だけが残されるこの空間は、誰にとっても「安全」の象徴だった。
けれど、その安全が本物である保証は、どこにもない。
ユキの部屋の前に、数人の男が集まっていた。
壁にもたれ、小声で笑い合いながら、扉の様子を窺っている。
明確な悪意があるわけではない。ただ、興味と好奇心、そして抑えきれない欲望が混じり合った、あの独特の湿った空気が漂っていた。
噂はもう広がっている。
ユキが女になったこと。
不安定で、部屋に閉じこもっていること。
「絶対可愛いと思うんだけど」
「まじ拝んでみてー」
ただの軽口の延長。
だが、その軽さの裏にある視線は、決して無害ではない。
その背後に、足音もなく近づく影があった。
「……何やってるの?」
低く、抑えられた声。
振り向いた男の肩を、細い指が掴む。軽く、しかし逃げ場を与えない強さで。
「ちょ、離せよ」
反射的に振り払おうとした腕が、びくともしない。掴まれているのは自分のはずなのに、逆に地面に縫い止められているような錯覚を覚える。
モユルは無表情だった。
女らしい柔らかな顔立ちのまま、その目だけが、凍りついた湖面のように冷えている。
「ユキの部屋に、なんか用?」
怒鳴らない。威嚇もしない。ただ事実を問う声。
けれど、指先に込められた力は明確だった。
男はそこでようやく気づく。
指が食い込み、骨の芯まで締め上げられている感覚。冗談でも誇張でもない、本気の力。
「……っ、お前、女だろ……?」
「関係ある?」
わずかに力が強まる。男の顔が歪む。
周囲の連中が一歩、二歩と後退した。
冗談の延長でここに来ただけだった。こんな温度の目を向けられるとは思っていなかった。
モユルは、ゆっくりと男を解放する。
そして、言う。
「ユキに近づいたら、殺す」
抑揚のない声だった。そこに怒りも憎しみもない。ただ事実を告げるように、平坦に。
脅しではない。宣言でもない。
未来の結果を、先に読み上げただけの声音。
その目を真正面から受けてしまった男は、もう笑えなかった。
冗談も、言い訳も浮かばない。ただ、本能が危険を告げている。
「……行こうぜ」
誰かが小さく呟き、男たちは足早にその場を離れた。
モユルはしばらくその背中を見送っていたが、やがて何事もなかったように視線を落とす。
扉の向こうでは、ユキが静かに過ごしている。
それでいい。
世界の湿った視線も、扉の前に集まる好奇心も。
モユルは、誰にも気づかれない位置へ戻っていく。
安全は守られている。
――少なくとも、今は。
――その少し前。
麻婆豆腐はユキの部屋を出て、自分のシェルターへ戻る途中だった。
いつもと同じ道。セーフティゾーンの端をかすめるように歩く。
頭の中はまだぐちゃぐちゃで、広場での出来事も、みっふぃの言葉も、完全には消化できていない。
何気なく視線をやった、その瞬間だった。
足が止まる。
壁と空間の境目が、わずかに揺れている。
ほんの一瞬、視界が歪んだ気がした。
まるで水面に小石を落としたあとのような、微細な波紋。
透明な膜が、空気の中に浮いているかのように、わずかに光を屈折させている。
「……なんだ、これ」
近づく。
目を凝らす。
確かに、そこだけ空間が均一ではない。
触れようと指を伸ばした、その刹那。
空気がひやりと冷えた。
同時に、ポケットの中で微かな振動。
反射的にスマホを取り出す。画面を点ける。
右上の表示。
圏外のはずだったアンテナが、一瞬だけ、一本立った。
本当に一瞬だった。
瞬きほどの時間で消え、再び「圏外」に戻る。
麻婆豆腐は息を呑んだ。
もう一度、歪みにスマホを近づける。
何も起きない。
空は相変わらず人工的な青を保ち、光は均一に降り注いでいる。誰も騒がない。誰も気づかない。
けれど、さっき確かに見た。
アンテナは、立った。
「……え……?」
喉から、かすれた声が漏れる。
鼓動が早まる。指先が汗ばむ。
もし今のが見間違いでなければ。
もし、本当に電波が戻ったのだとしたら。
ここは、完全に閉じた世界じゃない。
どこかと、繋がっている。
麻婆豆腐は歪みを見つめたまま動けなくなる。
セーフティゾーンの端で、誰にも気づかれないまま、世界の境界がわずかに揺らいでいる。
アンテナは消えた。
だが、さっき確かに立った。
空は、何もなかったように青い。




