ゆうとくん
噴水広場には、もう誰もいなかった。
さきほどまで怒号とざわめきが渦を巻いていた場所には、噴水の水音だけが淡々と残り、白い飛沫が朝の光を鈍く反射している。
足元には、もう金属の塊にしか見えないくらい歪んだ指輪。
誰にも拾われないまま、ただそこにあるだけ。
麻婆豆腐はそれを、しばらく黙って見下ろしていた。
みっふぃの声が、頭の奥で何度も反響する。
――ゴミ。
――100億倍マシ。
――結婚関係解消。
喉の奥が焼けるように熱い。
拳を握る。関節が白くなり、爪が食い込む。
「……クソ」
漏れた声はかすれていた。
次の瞬間には、抑えきれない衝動に押し上げられる。
「クソクソクソ!!」
叫んでも、誰も振り向かない。笑う者も、煽る者もいない。ただ噴水の音だけが、絶えず響いてる。
視線が、壊れた指輪からゆっくりと外れた。
――ユキ。
広場にいなかった。
あれだけ名前が飛び交っていたのに、当人だけがいなかった。
舌打ちが漏れる。
理由を整理する気はない。自分がなぜ苛立っているのかも、なぜ惨めなのかも、考えたくなかった。ただ行き場のない衝動をどこに吐き出せばいいのか。それだけだった。
「……あいつのせいだろ」
吐き捨てるように呟き、足が動く。
殴られるか、殴り返されるか、どちらでもいい。とにかく、何かにぶつけないと気が済まない。
通路を早足で進む。拳は握ったまま。呼吸は荒い。止まる気はなかった。
やがてユキの部屋の前に辿り着く。
ノックはしない。拳を振り上げ、そのまま叩きつける。
荒い音が鼓膜を劈く。
返事も聞かずに、ノブを回す。
扉が壁にぶつかるほどの勢いで開いた。
部屋の隅にあるベッドの上にユキがいる。
膝を抱えた姿勢のまま、静かにこちらを見る。
麻婆豆腐は荒い呼吸のまま立っていた。
目は赤く、口元は笑っている。だがその笑みは今にも壊れそうだった。
「よぉ、クソメスwwww」
軽薄な調子で両手を打ち合わせる。
「結局さぁ、お前、女だからひとりじゃ何もできなかったんだなwww」
ユキは怒らない。戸惑いもしない。ただ視線だけを向ける。その無反応が、神経を逆撫でする。
麻婆豆腐はさらに笑みを吊り上げた。
「さすがだわwww そうやって一生男に寄生する生活乙wwww」
テーブルを蹴る。
置いてあったスマホが床に転がり落ちる。
そのスマホを麻婆豆腐は力任せに踏みつけた。
あの時のみっふぃと同じように。
「女になった瞬間守られるとか最強かよwww」
「努力いらねーじゃんwwwいいご身分だなぁ?www」
蹴るたびに言葉が荒れる。
けれどその目は笑っていない。止まらないのではなく、止められない。言葉を発するに目の焦点がずれていく。
「お前さ、ナカジマとかagjtmとかLaylaの事あんだけ狂わせて、みっふぃまで手出すのかよ……」
息が詰まる。
「……俺だけ何も持ってねーじゃん」
その一言だけが、本音に近かった。
部屋は静まり返っている。
ユキは、ただ静かに麻婆豆腐を見ている。
そこには怒りも軽蔑もない。
やがて、静かに口を開いた。
「あんたみたいな子、小学校にいた」
笑いが一瞬止まる。
「……は?」
「ゆうとくんって名前だったかな」
天井を見上げ、思い出を辿るように言葉を選ぶ。
「授業中に急に立ち上がったり、廊下に飛び出したりして、ずっと先生とか周りの気を引こうとする子だった」
淡々としている。
「周りが嫌がるのに、わかっててわざとやってる感じ」
麻婆豆腐の眉が強く寄る。
「うるさかった」
そこで一度、間を置く。
「でもさ、参観日にその子の親、一度も来なかった」
部屋の空気がわずかに沈む。
「その日だけ、やたら暴れてた。椅子投げたり、誰かに喧嘩ふっかけたり」
視線がゆっくりと麻婆豆腐へ戻る。
「今日のあんたみたいだった」
責める調子はない。ただ事実を並べる。
「……ッは?俺はそんなガキじゃねぇ!」
荒い否定。しかし声は掠れている。
ユキは肩をすくめる。
「そうかもね」
追い詰めない。断定もしない。その曖昧さが、逃げ場を奪う。
沈黙が落ちる。
さっきまで止まらなかった言葉が、急に行き場を失う。
麻婆豆腐の拳が震える。
「……みっふぃにフラれた」
絞り出すような声だった。
目の奥が揺れる。泣きそうなのを、必死に押し止めている。
ユキは瞬きを一つ。
「そっか」
それだけだった。
「……あいつ、俺のことゴミって言ってさ」
笑おうとして、うまく形にならない。わずかに口角が揺れるだけだ。
「急に真顔で指輪投げやがって」
喉が詰まる。
ユキは少し考えてから言った。
「みっふぃ、大事だったんだよね?」
麻婆豆腐が顔を上げる。
「ずっとふざけてるけど、ちゃんと好きだったんだね」
拳がさらに強く握られる。
「……うるせぇ」
だが否定が続かない。
ユキは静かに続ける。
「女だから寄生とか、どうでもいい」
「でも、必死なのは、見ててわかる」
「私、あんたのこと悪い奴だと思ってないよ」
麻婆豆腐の喉が震える。
一瞬、本当に泣きそうな顔になる。
「……なんでだよ」
「正直だから」
天井を見上げながら、少しだけ考える。
「ダサいけど」
ほんのわずかに口元が緩む。
「ちゃんと傷ついてるの隠せてないし」
必死で握っていた拳が、ゆっくりほどける。
さっきまで頑なに張ってた肩の力が抜けていく。
「……俺さ」
「最初はお前のこと、ムカついてた」
「自分はその気はないって顔してるけど、周りはお前ばっか構うから」
正直な告白だった。麻婆豆腐は続ける。
「でも今は、ちょっと違う」
ユキは首を傾げる。
「なにが」
しばらく黙り込んだあと、ぽつりと。
「……友達って、こんな感じなのか?」
子どもみたいな声だった。
ユキは小さく息を吐く。
「知らない」
ほんのわずかに笑う。
「でも、暴言吐きに来るのは違うと思う」
麻婆豆腐が苦く笑う。
「……悪かった」
小さいが確かな声。
ユキはうなずきもしない。ただ言う。
「また来てもいいよ」
「暴れないなら」
「命令かよ」
「お願い」
まっすぐ返す。その素直さに、麻婆豆腐の肩から力が抜ける。
ドアへ向かい、ノブに手をかける。振り返る。
「……お前さ」
少し迷ってから。
「思ったより、普通だな」
ユキは少しだけ考える。
「うん」
「人間だし」
今度の笑いは、虚勢でも皮肉でもない。ちゃんと力の抜けた笑いだった。
「じゃあな」
扉が閉まる。
入ってきた時と違い、労るような静かな音だった。
また、静寂が訪れる。
ユキは再び膝を抱える。
広場の騒動も、砕けた指輪も知らない。
それでも、目の前で壊れかけていた顔からは、目を逸らせなかった。




