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9800円

噴水広場の空気は、もはやざわめきでは済まなかった。


Laylaの告発、ナカジマの拒絶、agjtmの牽制。

それぞれの目的が違うはずなのに、中心にある名は一つしかない。

その一点を巡って、見えない火花が散っていた。


「だからさ。ナカジマ一人じゃ荷が重いだろ」


軽い口調だが、有無を言わせない圧が滲んでいる。

長い指の隙間から見え隠れする包帯の血が、ここに立つ資格を無言で示していた。


「俺も面倒見るよ」


声音は穏やかだ。だが視線は微塵も揺れない。真正面からナカジマを射抜いている。

提案のかたちをした、宣戦布告だった。


対岸の争いが激化するほど、群衆は興奮に湧く。スマホも使えない、文明性がほとんど失われた世界で、他人の痴話喧嘩ほどの娯楽はない。全員が固唾を飲んで、次の言葉を待った。

ナカジマの口元から、わずかに笑みが消えた。


「必要ない」


怒気を抑えた硬い声。指は血が滲むほど強く握られている。


「ユキのことは俺が――」

「俺“も”って言ってんだよ」


agjtmが被せる。

――お前だけに甘い汁を啜らせるつもりはない。

目がそう告げていた。

ナカジマのこめかみがぴくりと動く。怒りが手の届くところまで来ていた。


その瞬間。


「つーかさぁwww」


場違いな軽さを帯びた声が、背後から割り込んだ。

麻婆豆腐だった。場の緊張を理解しているのか、していないふりをしているのか、口元には薄い笑みが貼りついている。


「ユキにチヤホヤしてた女たち、残念だったなwww」


一瞬、全員が意味を測り損ねる。


「あんだけ必死でユキの尻追っかけてたのにwwww」


広場の温度が、明確に下がった。

怒りというより、侮辱に近い空気だった。

何人かの女性プレイヤーが顔を強張らせる。Laylaの瞳が細くなり、モユルの冷たい視線が麻婆豆腐を射抜く。agjtmは無言で睨み、その目の奥にさきほどとは違う冷えを宿していた。


「爆死で草生えるわマジでwwwww」


心底愉快そうに、麻婆豆腐は腹を抱える。

たが、笑っているのは麻婆豆腐だけだ。

その言葉は、ここにいる全員を嘲笑っていた。


「うるせーよ!!」


鋭い怒声が空気を切り裂いた。

みっふぃだった。いつもの甘ったるい声色は欠片もない。怒りで肩は震え、顔が真っ赤に染まっている。演技も愛嬌も、跡形もなかった。


「ゴミが調子乗ってんじゃねぇよ!」


広場がざわつく。

麻婆豆腐が目を丸くする。


「お前みたいなイキリキッズより、女でもユキの方が100億倍マシなんだよ!!」


叫びながら、みっふぃは自分の指から結婚指輪を外した。

麻婆豆腐から貰った、9800円の課金指輪だ。

それを右手で高く掲げ、麻婆豆腐の足元へ叩きつける。

カシャン、と乾いた音が、広場に響いた。


「は?」


呆然とする麻婆豆腐を見下ろしたまま、みっふぃは指輪を踏みつけた。何度も何度も。細いヒールが金属に食い込み、指輪の形がみるみる歪んでいく。


「もうあんたとは結婚関係解消するから」


声は冷えきっていた。さきほどの怒声より、よほど重い。


「二度と絡んでくんな」


広場の空気が、完全に崩れた。

麻婆豆腐は言葉を失ったまま、足元の壊れた指輪を見つめていた。さっきまでの笑いは消え、顔色だけが白く抜けている。

軽口が、取り返しのつかないものを壊したと、ようやく理解した顔。


Laylaは一瞬だけ視線を逸らし、目を伏せた。場が想定より大きく揺れた。それを静かに測っている。


モユルは拳を握ったまま黙っていた。怒りなのか混乱なのか、それとも守れなかった記憶の再燃なのか——自分でも整理できないまま、ただ立ってい


そして——ナカジマとagjtm。

二人の視線が、再び真正面からぶつかった。

麻婆豆腐の爆弾が空気を壊したことで、逆に本質だけが剥き出しになる。余計な雑音が落ち、残ったのは欲と意地だけだった。

その中心には、いないはずの名前がある。

ナカジマが静かに言う。


「……関係ない奴は引っ込んでろ」


余裕はなかった。ただ、防衛線を引く声だった。

agjtmは肩をすくめる。


「関係ないわけないだろ。お前だけの問題じゃない」


柔らかい口調のまま、線を踏み越える。

Laylaが続けた。


「そう。ユキは閉じ込められる存在じゃない」


神は1人だけのものではなく、皆に分配されるべき存在だと。

それぞれが違う理屈を掲げていた。ユキのためだという大義名分のもとに。


ナカジマはゆっくりと視線を外した。怒りも反論も、もう意味がないと判断した顔だった。


「……帰る」


それだけ言う。止める者はいなかった。

壊れた指輪を見下ろしたまま動けない麻婆豆腐だけが、やけに小さく見えた。

誰も勝っていない。だが、誰も引いていない。

ナカジマの背中が輪の外へ抜ける。人の隙間が、静かに道を開けた。

噴水の水音だけが、やけに大きく響く。


その場に、ユキはいない。

それが、いちばん重かった。

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