出廷状
部屋の空気は、まだどこか張りつめていた。
窓の外では朝の光が少しずつ差し込んでる。
でも、室内だけが明け方の名残を引きずっているように重苦しい。
ナカジマはユキから一歩だけ距離を取ったまま立ち尽くし、視線を落とす。
その沈黙が長引けば長引くほど、ユキとの距離が離れそうで怖かった。
「……髪、梳こうか」
できるだけ普段と同じ声音で言う。
何でもない提案のはずだった。
これまでは、そこに躊躇はなかったし、ユキも受け入れてくれてた。
だが、ユキの指先がわずかにシーツを握る。
その小さな動きだけで、前のようには戻れないことを確信する。
「……今日は、いい……」
強い言葉ではない。けれど、はっきりとした境界線を引かれた。
ナカジマが半歩だけ近づこうとした瞬間、ユキの肩が無意識に強張った。
逃げるほどではない。それでも、触れられる前に身体が拒否している。
そこで、ナカジマの指先は止まった。
理解してしまう。
もう自分は、ただの“安心できる存在”ではない。
守る人間でも、便利な道具でもなく、欲を持った男として認識されている。
胸の奥がじくりと痛む。
それなのに、同時に芽生える感情がある。怖がられている。意識されている。
触れられることを警戒される位置に、ようやく立ったという実感。
最低だ、と心の中で呟く。
傷ついているのに、どこかで安堵している。
ようやく男として見られた――そんな思考を、すぐに押し殺す。
今ここで踏み込むのは、まだ早い。
「……そっか」
それだけ言って、距離を詰めない。今日は引く。
選ぶのは、優しさの皮を被った打算。
ナカジマはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、今日は帰る」
できるだけ警戒されないように、穏やかな声音で告げた。
ドアが静かに閉まり、足音が遠ざかる。
部屋に、沈黙だけが残った。
ユキはしばらく動かなかった。
やがてベッドの中央へ身体を寄せ、膝を抱える。
指先が震えていることに、自分で気づく。
無理。
触られたくない。
近づかれると、身体が勝手に硬くなる。
一瞬でも「気持ち悪い」と思ってしまった自分が嫌だ。
けれど、いなくなるのはもっと怖い。
隣にいてほしい。
ずっと守っていてほしい。
あの低い声で、名前を呼んでほしい。
囲われるのは嫌なのに、離れるのはもっと嫌だ。
「……わかんない……」
膝に額を押しつける。
ナカジマを拒絶したいわけじゃない。ただ、男だと意識してしまった瞬間から、もう前みたいに無防備ではいられなくなった。
触れられたくない。でも、そばにはいてほしい。
その矛盾を抱えたまま、ユキはしばらく動けなかった。
―――
廊下に出た瞬間、空気がやけに澄んでいることに気づく。
自分の呼吸だけでユキを汚していたのかもしれない、そんな錯覚すら湧いてくる。
数歩進んだところで、背後から声がかかった。
「ナカジマさん」
振り向く前に、胸の奥で小さくため息をつく。
――あぁ、だるいな。
顔を上げた瞬間には、もういつもの笑みを作っている。人当たりのいい、角のない表情。
「Laylaさん。どうしました?」
Laylaは柔らかく微笑んでいた。だが、その目は笑っていない。
明らかに自分に対する敵意が見てとれる。
「今から、セーフティゾーンの噴水広場でみんな集まるの」
さらりと言う。
「ナカジマさんも、来て」
“も”ではない。“あなたを”だ。
ナカジマは一瞬だけ視線を細める。
「こんな時間に?」
外は、まだ朝の光が差し込んできたばかり。
集まるには、早すぎる時間だ。
穏やかな口調で尋ねるが、警戒は緩めない。
Laylaは肩をすくめる。
「大事な話があるから」
一拍置いてから、静かに続ける。
「ちゃんと、説明してほしいことがあるの」
その言い方で理解する。
ユキの部屋にいたこと。明け方に抱えて歩いていたこと。そしてユキが女だということ。
たぶん全部、バレてる。
よりによって、一番面倒くさい女に。
「説明、ですか?」
とぼけることはできる。だが意味はない。
Laylaは一歩だけ距離を詰める。
「ユキを、隠してたよね?」
あー、やっぱ見られてたか。
心の中で深いため息がでる。でも、顔には出さない。口角だけは常に上げておく。
Laylaは穏やかな声のまま、続けた。
「みんな、心配してるの」
嘘だ。“みんな”ではない。Laylaが主導だ。
ただ、周りを巻き込むことで、決して逃がしはしないというLaylaの魂胆は見えた。
「噴水広場で待ってるから」
にこりと笑う。
「ちゃんと来てね」
ナカジマの返事は待たなかった。
拒否権はない。聞く必要もないと言いたげに、そのまま足音が遠ざかっていく。
廊下に一人残されたナカジマは、しばらく動かなかった。
ユキは呼ばれていない。
それだけが救いであり、罠でもある。
自分だけが矢面に立つ。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
正直に言えば、全部ぶち壊したい。
けれど、ユキの名前が出るなら逃げられない。
ナカジマはゆっくりと歩き出す。
噴水広場へ向かって。
嵐の中心へ、自ら足を踏み入れるみたいに。




