夜の残り香と包帯の檻
部屋に戻る頃には、月が輪郭を失いかけて、空が白みはじめていた。
ナカジマは何も言わず、ユキをベッドに下ろした。腕から離れた瞬間、自分の体温まで奪われた感覚になる。
床に視線を落とすと、赤い点がいくつも続いている。
ユキの小さな白い足は、痛々しいくらい赤く染まっていた。
「……足、見せて」
声はできるだけ平静を装ったが、喉の渇きが緊張を隠せてない。
ユキは少しだけ間を置いてから、ベッドの端に座り直す。
だが、ナカジマが床に膝をつき、手を伸ばしかけた瞬間、ほんのわずかに足が引いた。
ナカジマの指先が空を切る。
「……痛い?」
冷静に問いかけるが、違うことは分かってる。
あれは痛みへの反応じゃない。
ユキはナカジマから目を逸らしたまま、小さく言った。
「……平気だよ」
でも、足は引かれたまま。
胸が重い。まるで鉛を飲み込んだみたいに。
ついさっきまでは違った。腕の中にいても逃げなかった。目が合って、笑いかけられる事はあっても、見たくないものみたいに目を逸らされる事なんてなかったのに。
ナカジマは一度だけ目を閉じ、息を整えた。
「何もしない」
感情は見せないように、静かに伝える。
「足を消毒するだけだ」
それでもユキの肩はわずかに強張っている。
責める気にはなれなかった。怖がらせたのは事実だ。
ナカジマは両手を軽く開き、ゆっくりと見せる。武器を持たない証明のように。
「触るぞ」
そう確認だけしてから、足首に手をかける。
触れた瞬間、ユキの肩がピクリと揺れる。
でも、今度は逃げなかった。
消毒液を染み込ませたガーゼが傷口に触れる。
「しみる?」
「……ちょっとだけ」
声は強ばっているが、さっきより明確な拒絶は感じられない。
ナカジマは視線を上げない。
余計な思考は排除して、ただ傷口を消毒するという作業に徹する。
静まり返った部屋に、包帯を引き出す音が落ちる。
そのとき、鼻腔に引っかかる匂いが漂ってきた。
湿った夜の木の芯みたいな、沈んだ香り。
焚べらせた沈香の残り火のように低く、体温でわずかに甘くなる白檀。
消毒液より先に、それが鼻に残る。
ナカジマの指が止まる。
……あの男の匂いだ。
呼吸が、わずかに浅くなる。
それを隠すように、包帯を強く引いた。
「……っ…」
布が食い込み、ユキから小さな息が落ちる。
その呼吸に、ナカジマの手が止まる。
「急ぎすぎた」
ぽつりと漏れる。
「怖がらせるつもりはなかった」
言い訳にしかならないと分かっていても、言わずにいられなかった。
「昨日みたいにいなくなるのが、怖いだけだ」
ガーゼを替えながら続ける。
「結婚は…ただの保険みたいなもんだった」
笑えない冗談みたいな言い方になる。
「でも、嫌なら今はいい」
そう、”今は”いい。胸の奥にある痛みは、次に取り出す時まで、底に沈めておく。
ユキがゆっくりと顔を上げた。
目には、はっきりとした嫌悪が映ってる。
だが、さっきよりは幾分和らいでる。
「……男、だもんね」
ぽつりと落ちた一言。
自分の奥底を暴かれたみたいで、ナカジマは一瞬だけ呼吸を忘れた。
「……ああ」
否定なんて、できない。降参する。
「男だよ」
言ってしまった後は、どこか心が楽になった。
ユキからは何の返事もない。それでいい。
ナカジマは最後まで包帯を巻き終え、そっと手を離した。
それ以上は触れない。距離も縮めない。
「終わった」
そう短く告げる。
ユキは足を見下ろし、きつく巻かれた包帯をしばらく眺めてから、小さく言った。
「……ありがと」
ほんの少しだけ、緊張がほぐれてる。
ナカジマは笑わなかった。
ただ、静かに頷く。
心の中は、今もナイフで滅多刺しにされたみたいにズタズタだ。
けれど思考は、さっきよりクリアになってる。
今は指輪は出さない。まだその時じゃない。
代わりに逃げ道は全て塞ぐ。
俺以外、選ばせない。




