帰る
「……寒くない?」
今にも折れてしまいそうな身体を抱えながら、ナカジマはそう尋ねた。
返事はない。代わりに、ぼんやりとした笑顔だけが返ってくる。ただ反射みたいに。
まだ明けてない空の下、ユキの脚はよく手入れされた陶器のように白く光っていた。裸足で歩いていたせいか、小さな傷から血が滲み、ぽたり、ぽたりと落ちていく。それが、ナカジマのシャツを静かに汚していく。
「……痛くない?」
そう聞いても、ユキは首を振らない。頷きもしない。ただ遠くを見るような目をしたまま、小さく笑った。
「……だいじょうぶ」
羽毛のように柔らかく軽い笑顔。まるで、他人の身体の話でもしてるみたいだ。
ナカジマは、その笑顔から目を逸らせなかった。胸の奥がひりつく。折れるくらい強く抱き締めたいけど、壊したくない。その矛盾が、指の力をほんの少し強める。
血で汚れたシャツを見下ろす。なぜか、安堵していた。
――誰のものか、はっきりした気がして。
ゆっくりと息を吐く。
――ユキには、もう俺しかいない。
そのまま歩き出す。揺れる視界の中で、ユキはナカジマの胸元に額を預ける。ただ、そこにある体温を当然のものとして受け入れている。
ナカジマは歩みを止めなかった。夜風が冷たく頬を撫でるたびに、腕の中の体温を確かめるように、無意識のうちに抱く力が強くなる。
ユキは胸元に額を預けたまま、ぼんやりと夜空を見ていた。意識がどこまで現実にあるのか、判別がつかない目だった。
――このままでは、また消える。
ナカジマの胸に、焦燥が差し込む。
昨日も、今日も、何度も思い知らされた。ユキは自分の腕の中にいても、いつの間にか摺り抜けて、どこかへ行ってしまう。
だから。
「ユキ」
できるだけ穏やかな声を出す。喉が乾いているのを、自分でもわかっていた。
「結婚、しないか」
ユキの睫毛が、かすかに動く。
「結婚っていっても、リアルのじゃない」
急いで言葉を足す。
「ゲーム内のやつ。指輪つけるだけ。お互いの位置がすぐわかる。相手のいるとこにワープもできる」
合理的な説明を重ねる。その裏にある汚い感情を隠すためだと、自分でもわかっている。
「急にいなくなったら、困るだろ」
声が、少しだけ低くなる。ユキの表情を見ながら慎重に言葉を探す。
「探す時間も減るし、安全だから…」
安全。
その言葉が、自分のためなのかユキのためなのか、曖昧になってくる。
ユキはしばらく黙ったままだった。ナカジマの胸元に手を置いたまま、視線だけをゆっくりと上げる。
その目に、はじめて明確な揺らぎが浮かんだ。
……頷けばいいだけだ。
この世界だけの話だし、実害はない。便利になるだけ。ナカジマは守ってくれるし、どこにいるか把握できるのは楽だ。
頭では、理解している。
けれど。
背筋がぞわぞわする。
自分の指にナカジマから贈られた指輪を嵌める未来を想像したくない。触れられていないのに、触れられた気がする。首元に冷たい鎖を繋がれたような嫌悪感に襲われる。
――囲われる。
その言葉が、無意識に浮かぶ。
できる限り落ち着きたくて、ほんのわずかに息を吸った。
頷こうとする。けれど、首が動かない。
ナカジマの目が、わずかに細くなる。
「……嫌か?」
責める声音ではない。むしろ、確認に近い。
ユキは視線を逸らした。夜の暗がりに逃げるみたいに。
「……別に」
反射的な言葉。
でも、それ以降が続かない。
ナカジマはそれを見逃さなかった。
抱き上げた腕の力を、ほんの少しだけ緩める。落とさない程度に、距離を作る。
「便利なだけ」
静かに続ける。
「別に、縛るつもりはない」
その言葉が出た瞬間、自分で矛盾に気づく。縛りたくないわけがない。逃がしたくないから、結婚を切り出したのだ。
ユキは小さく眉を寄せる。
ナカジマの言ってる事は、全部正しい。
ナカジマを嫌いなわけではない。守られるのは、嫌いじゃない。楽をしたい気持ちもある。
それでも。
「……なんか」
かすれた声が落ちる。
「やだ」
小さい、けれどはっきりと言ってしまった。
ハッとして、口を噤もうとするが、もう遅かった。
ナカジマの呼吸が止まる。
拒絶というより、生理的な反応。頭だけの理解を、身体が拒んでる。
その違いを、ナカジマは理解してしまう。
ユキは自分を拒絶しているわけではない。ただ、自分と“結びつく”ことを拒んでいる。
守るのはいい。使うのもいい。そばに置くのもいい。
でも、所有されるのは嫌だと。
その境界線が、見えた。
ナカジマは一瞬だけ目を閉じる。胸の奥に、鋭い痛みが走る。
それでも。
「……そっか」
笑う。無理に。
「いきなりは、重いよな」
冗談めかした口調を作るが、声の奥は乾いている。
笑ってるつもりだが、上手く口角が上がってるかは分からない。
ユキは安堵したように、小さく息を吐いた。その反応が、さらに胸を刺す。
察した。
拒絶されたのではない。
踏み込んではいけない場所を、踏みかけただけだ。
それでも、ナカジマの中で何かが静かに固まる。
――今は、まだ。
指輪は出さない。でも、いずれ。
腕の中の軽すぎる体重を、もう一度確かめる。
ユキは再び胸元に額を預ける。何事もなかったみたいに。
その無防備さが、いちばん残酷だった。
夜は冷えている。
それでも、ナカジマの胸の内側だけが、焼けるように熱かった。




