表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/74

迎え

――ドン。


玄関が強く叩かれた。

一度きりではない。焦燥のままに何度も何度も打ちつける音が鳴り響く。振動が壁を伝い、室内を揺らす。


「ユキ!!」


扉越しに響く声は、ナカジマのものだった。

余裕の欠片もない、切羽詰まった叫びが部屋にも届く。

agjtmが奥歯を噛み締める。その表情は、怒りと焦り、そしてひた隠してきた恐怖心が見え隠れしてる。ただ、奪われるからというより、気付いてしまった事に対してだ。


「来やがった…」


喉の奥で押し潰すように吐き出す。瞳は、いまだに叩かれる扉を睨み付けてる。

その隣で、ユキがぱっと顔を上げた。


「あ」


その一音には、安堵が込められていた。

強張っていた表情が、一瞬でほどける。agjtmの手が更にユキを強く掴むが、それすらも気にしていない。


「ナカジマ、来た」


その言葉を聞いた瞬間、agjtmの胸の奥で何かが静かに崩れ落ちた。

昨夜、自分の胸元にすり寄って眠った体温。

「あったかい」と呟いた声。

あの瞬間だけは、確かに自分のものだったはず。

それが、いまはただの幻想だったのかと思うくらいには、遠い記憶となってしまった。


――ガチャッ。

力任せに鍵がこじ開けられる。焦燥がドアノブを回す音ですら感じられる。

扉が勢いよく開いた瞬間、張り詰めていた空気が霧散した。ナカジマは荒い呼吸のまま室内を見渡し、割れたグラスと床に滲む血、そして裸足のユキを一瞬で視界に収める。その理解の速さは、本能に近かった。


「離せ!!」


怒鳴るというより、叩きつけるような声だった。

すぐさま間に割って入り、agjtmの手を強く振り払う。掴んでいた手は空を切り、ユキの体温がすっと離れていく。

agjtmは反射的に掴み返さなかった。ただ、振り払われた手をゆっくりと下ろす。指先には、まだ微かに残る感触がある。

ユキはふらりと体勢を整えると、袖を直し、何事もなかったかのような顔でナカジマを見上げた。


「帰ろ?」


あまりにも軽い声だった。昨夜の事なんて、まるで最初から存在しなかったみたいに。

そしてためらいなく、ナカジマに両手を伸ばす。

抱っこして、と言葉にしなくても伝わる仕草。当然の流れのように要求する。

ナカジマは一瞬だけ固まる。

目の奥が揺れる。安堵と怒りと情けなさと、それでも溢れてしまう喜びが混ざり合う。

次の瞬間には、泣きそうな顔で笑っていた。


「……なんなんだよ」


小さく、息のように零す。

そして宝物のように、そっと抱きかかえる。思っていたよりもずっと軽い。

昨夜、別の男の腕の中に収まっていただろう体が、今は当たり前のように自分に預けられている。その事実は甘く、同時に胸が抉れるくらい痛い。

ユキは自然にナカジマの首元へ腕を回した。足裏から血が流れ落ちているのに、本人は欠片も気にしない。


「……怖くなかった?」


かすれた声で問う。責める気はない。ただ、確認するような弱い声だった。

ユキはきょとんと瞬きをする。


「え?」


なぜそんな質問をされたのか、今のユキには見当もつかない。何度反芻しても導き出せない答えに、首を傾げる。


「……別に?」


本気でそう言っている顔だった。


「ナカジマが来ると思ってたし」


何の疑いも持ってない答え。いや前提だ。

来る。助ける。守る。そういう役割を、何の葛藤もなくナカジマに割り振っている。

その言葉は、脳を溶かすには充分な麻薬だった。猛烈な快楽と、決して満たされることのない依存が同居する。

ナカジマの喉が小さく震える。腕に込めた力が、ほんの僅かに強まる。


「……そっか」


それ以上は言わない。言えば崩れる気がした。

背後で、agjtmは動かずに立ち尽くしていた。

伸ばしかけた手は、もう届くことはない。


だが――

崩れているのは、感情だけではなかった。

遅れて、理解がやってくる。

守る男。帰る場所。“当然来る存在”。

そこに自分はカテゴライズされてない。

だから負けたのではない。

最初から、勝負の土俵にすら立っていなかったのだ。

ふと思い出したかのように、ユキが振り返る。


「あ、agjtm」


声音は昨日の延長線上のまま。


「オムライス、美味しかったよ」


柔らかく笑う。本物の笑顔だ。だからこそ残酷だった。


「あったかかったし」


一言、追撃のように添える。


「また作ってね。今度はナカジマに渡してくれたら大丈夫だよ」


悪意はない。ただ自然な配慮。

その言葉が、致命的な一撃をもって胸を刺してくる。

壁に凭れかかるように座り込む。

そして力なく足を投げ出す。


(ああ、そうか)


胸がざわつく。

ナカジマの腕に収まるその体が、どうしても目に焼き付いて離れない。

あれを壊さない限り、何も始まらない。

ナカジマが足元の血に気づき、「じっとしてて」と短く言ってユキを抱え直す。ユキは素直に頷く。

扉がゆっくりと閉まっていく。


「ばいばい」


閉まりきる直前の別れの挨拶。それはひどく軽いものだった。

扉が閉まる。カチャリという乾いた音だけが部屋を反射する。

その後、訪れたのは静寂だった。

残されたのは、割れたグラスの破片と赤い跡、そして消えきらない体温の記憶だけ。

agjtmはゆっくりと笑った。音のない笑いだった。

絡めとってから壊すつもりだった。

壊すまでは冷静でいるはずだった。

それなのに、一晩一緒にいただけで、全部持っていかれた。

違う。

持っていかれたのではなく、自分が足りなかっただけだ。

床に落ちたガラス片を拾い上げる。握りつぶすように掴むと、遅れて血が滲んでくる。

ぽたりぽたりと、ユキの残した赤い道と静かに重なり合う。

どちらの血かなんて、もう分からない。


「…奪えないなら、崩せばいい」


低く呟く。

あの時、甘い顔をした自分が馬鹿だった。

壊れてイカれた女を奪い取るのに理屈なんていらなかった。

助けや、守ってもらう前提。

そんなもの、あの女に必要ない。

俺が飼い殺す。


奪えないなら、削る。

ぐらつくまで。

そう思考が定まった瞬間、agjtmの目から迷いが消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ