迎え
――ドン。
玄関が強く叩かれた。
一度きりではない。焦燥のままに何度も何度も打ちつける音が鳴り響く。振動が壁を伝い、室内を揺らす。
「ユキ!!」
扉越しに響く声は、ナカジマのものだった。
余裕の欠片もない、切羽詰まった叫びが部屋にも届く。
agjtmが奥歯を噛み締める。その表情は、怒りと焦り、そしてひた隠してきた恐怖心が見え隠れしてる。ただ、奪われるからというより、気付いてしまった事に対してだ。
「来やがった…」
喉の奥で押し潰すように吐き出す。瞳は、いまだに叩かれる扉を睨み付けてる。
その隣で、ユキがぱっと顔を上げた。
「あ」
その一音には、安堵が込められていた。
強張っていた表情が、一瞬でほどける。agjtmの手が更にユキを強く掴むが、それすらも気にしていない。
「ナカジマ、来た」
その言葉を聞いた瞬間、agjtmの胸の奥で何かが静かに崩れ落ちた。
昨夜、自分の胸元にすり寄って眠った体温。
「あったかい」と呟いた声。
あの瞬間だけは、確かに自分のものだったはず。
それが、いまはただの幻想だったのかと思うくらいには、遠い記憶となってしまった。
――ガチャッ。
力任せに鍵がこじ開けられる。焦燥がドアノブを回す音ですら感じられる。
扉が勢いよく開いた瞬間、張り詰めていた空気が霧散した。ナカジマは荒い呼吸のまま室内を見渡し、割れたグラスと床に滲む血、そして裸足のユキを一瞬で視界に収める。その理解の速さは、本能に近かった。
「離せ!!」
怒鳴るというより、叩きつけるような声だった。
すぐさま間に割って入り、agjtmの手を強く振り払う。掴んでいた手は空を切り、ユキの体温がすっと離れていく。
agjtmは反射的に掴み返さなかった。ただ、振り払われた手をゆっくりと下ろす。指先には、まだ微かに残る感触がある。
ユキはふらりと体勢を整えると、袖を直し、何事もなかったかのような顔でナカジマを見上げた。
「帰ろ?」
あまりにも軽い声だった。昨夜の事なんて、まるで最初から存在しなかったみたいに。
そしてためらいなく、ナカジマに両手を伸ばす。
抱っこして、と言葉にしなくても伝わる仕草。当然の流れのように要求する。
ナカジマは一瞬だけ固まる。
目の奥が揺れる。安堵と怒りと情けなさと、それでも溢れてしまう喜びが混ざり合う。
次の瞬間には、泣きそうな顔で笑っていた。
「……なんなんだよ」
小さく、息のように零す。
そして宝物のように、そっと抱きかかえる。思っていたよりもずっと軽い。
昨夜、別の男の腕の中に収まっていただろう体が、今は当たり前のように自分に預けられている。その事実は甘く、同時に胸が抉れるくらい痛い。
ユキは自然にナカジマの首元へ腕を回した。足裏から血が流れ落ちているのに、本人は欠片も気にしない。
「……怖くなかった?」
かすれた声で問う。責める気はない。ただ、確認するような弱い声だった。
ユキはきょとんと瞬きをする。
「え?」
なぜそんな質問をされたのか、今のユキには見当もつかない。何度反芻しても導き出せない答えに、首を傾げる。
「……別に?」
本気でそう言っている顔だった。
「ナカジマが来ると思ってたし」
何の疑いも持ってない答え。いや前提だ。
来る。助ける。守る。そういう役割を、何の葛藤もなくナカジマに割り振っている。
その言葉は、脳を溶かすには充分な麻薬だった。猛烈な快楽と、決して満たされることのない依存が同居する。
ナカジマの喉が小さく震える。腕に込めた力が、ほんの僅かに強まる。
「……そっか」
それ以上は言わない。言えば崩れる気がした。
背後で、agjtmは動かずに立ち尽くしていた。
伸ばしかけた手は、もう届くことはない。
だが――
崩れているのは、感情だけではなかった。
遅れて、理解がやってくる。
守る男。帰る場所。“当然来る存在”。
そこに自分はカテゴライズされてない。
だから負けたのではない。
最初から、勝負の土俵にすら立っていなかったのだ。
ふと思い出したかのように、ユキが振り返る。
「あ、agjtm」
声音は昨日の延長線上のまま。
「オムライス、美味しかったよ」
柔らかく笑う。本物の笑顔だ。だからこそ残酷だった。
「あったかかったし」
一言、追撃のように添える。
「また作ってね。今度はナカジマに渡してくれたら大丈夫だよ」
悪意はない。ただ自然な配慮。
その言葉が、致命的な一撃をもって胸を刺してくる。
壁に凭れかかるように座り込む。
そして力なく足を投げ出す。
(ああ、そうか)
胸がざわつく。
ナカジマの腕に収まるその体が、どうしても目に焼き付いて離れない。
あれを壊さない限り、何も始まらない。
ナカジマが足元の血に気づき、「じっとしてて」と短く言ってユキを抱え直す。ユキは素直に頷く。
扉がゆっくりと閉まっていく。
「ばいばい」
閉まりきる直前の別れの挨拶。それはひどく軽いものだった。
扉が閉まる。カチャリという乾いた音だけが部屋を反射する。
その後、訪れたのは静寂だった。
残されたのは、割れたグラスの破片と赤い跡、そして消えきらない体温の記憶だけ。
agjtmはゆっくりと笑った。音のない笑いだった。
絡めとってから壊すつもりだった。
壊すまでは冷静でいるはずだった。
それなのに、一晩一緒にいただけで、全部持っていかれた。
違う。
持っていかれたのではなく、自分が足りなかっただけだ。
床に落ちたガラス片を拾い上げる。握りつぶすように掴むと、遅れて血が滲んでくる。
ぽたりぽたりと、ユキの残した赤い道と静かに重なり合う。
どちらの血かなんて、もう分からない。
「…奪えないなら、崩せばいい」
低く呟く。
あの時、甘い顔をした自分が馬鹿だった。
壊れてイカれた女を奪い取るのに理屈なんていらなかった。
助けや、守ってもらう前提。
そんなもの、あの女に必要ない。
俺が飼い殺す。
奪えないなら、削る。
ぐらつくまで。
そう思考が定まった瞬間、agjtmの目から迷いが消えた。




