焦燥
夜、ナカジマはユキの部屋を訪ねた。
行こうかどうか、ずっと迷っていた。
会えば理性が保てる自信がなかった。
だからこそ距離を置いていた。
それでも夕方になる頃には耐えきれなくなり、ユキの部屋の前に立っていた。
ノックをする手がわずかに震える。緊張なのか、それとも会えなかったことへの禁断症状なのか、自分でもわからない。
探るように、扉を叩く。
いつもならすぐに扉が開くはずだった。
だが今日は、あの笑顔が迎えに来ない。
内側からの気配がまったく感じられない。
静まり返った空気だけが返ってくる。
おかしい。意を決してドアノブに触れると、鍵はかかっていなかった。
嫌な予感がする。
「……ユキ?」
返事がない。心臓が一瞬、変な音を立てる。
逸る気持ちを抑えながら、部屋に足を踏み入れた。
部屋の明かりはついていた。ベッドは乱れておらず、争った形跡もない。窓もきちんと閉まっている。靴は揃えられ、スマホも机の上に置かれたまま。
だが、どこを探してもユキだけがいない。
背筋が凍りつく。
自分を落ち着かせようと、あらゆる可能性を提示する。
驚かせる為に、どこかに隠れてるのかもしれない。いや、充分探した。
散歩という選択肢も浮かぶが、靴もスマホも置いたまま、鍵もかけずに出るだろうか。
そこまできたとこで、口元を押さえる。息がうまく吸えない。胃の中が、せり上がってくる。
……まさか、連れ出されたのか?
その可能性が形を持った瞬間、視界が一気に白くなる。呼吸の仕方も忘れて、その場から崩れ落ちる。
否定したい。でも、今のユキは警戒心が全く機能していない。誰かに呼ばれればついていく可能性がある。
指先が震える。身体を起こそうとするが、壁すら上手く掴めない。
今にも崩れ落ちそうな足を必死で立たせながら、室内をいま一度見渡す。机の上に置かれたもの、椅子の位置、床のわずかな擦れさえも見逃さない。でも、決定打は見つからない。
守れなかったかもしれないという想像が、理性を削っていく。裏通り、PK、違法取引、監禁――最悪の可能性が次々と脳裏をよぎる。
「……探す」
呟きというより、決意だった。
言うや否や、部屋を飛び出す。
まず噴水広場。ユキがよく足を運んでいた場所だ。
階段を駆け下り、広場をくぐり抜ける。
夜の冷たい空気が肺を突き刺す。噴水広場に駆け込むが、既に誰もいなかった。噴水の音だけが耳障りなくらい響いてる。
焦点が定まらないまま、近くの露店主の服を掴みかかる。
「黒髪の女の子、見なかったか」
声は震えていたかもしれない。
曖昧な返答は最後まで聞かずに背を向け、市場区画へ走る。
黒髪の女の子、それだけの情報をもって尋ね続けるが、未だに明確な答えは得られない。
“ユキ”という名前は出せない。
女に戻ったことを知っているのは自分だけで、それを口外しないと約束した。
その約束が、今は重い。
裏通りへ入る。セーフティゾーンの中でも、治安が悪いと有名な場所だ。
裏路地の奥はボロ切れを纏ったホームレスが数人寝ているだけ。倉庫裏には人の影すらない。
そこでふと、ユキの靴が置かれていたことを思い出す。裸足なのに、遠くまで行けるわけがない。
ナカジマの中で、何かが壊れる音がした。
誰かがユキの部屋に入ったのか?
そのまま抱えられたのかもしれない。
勝手に映像が浮かぶ。
細い腕を掴まれるユキ。抵抗せず、「大丈夫だよ」と言われてついていく姿。
その想像だけで、呼吸が乱れる。
いや、まだだ。まだ決まった訳ではない、と必死に言い聞かせる。
最悪な状況を思い浮かべながらも、足は止まらない。
やがてフィールド外縁の夜の草原に出る。モンスターの咆哮が遠くで響くが、無視して走る。じりじりとHPが削れていくことにも気づかない。
広場に戻る頃には、灯りは半分消えていた。夜はさらに深くなっている。
同じ道を何度も往復し、同じ露店主に二度尋ねて、同じ酒場を三度覗く。それでも誰も心当たりがない。
時間だけが虚しく削れていく。
既に足裏の感覚がなくなってる。呼吸は荒れ、肺が痛む。食いしばった歯が、先ほどからカチカチと音を立ててる。限界はとうに過ぎてる。
月が傾いているのを見上げた瞬間、何時間経ったのかという問いが浮かぶ。しかし答えを出せば“手遅れ”と認めてしまいそうで、かぶりを振る。
放っておくと、また自分を責めてしまう。
あの時、行くのを躊躇ったからだ。理性がもたないと自分に言い訳をして、会うことを先延ばしにした。その数時間で、何かが起きたのかもしれない。
狂いそうだ。今にも叫び出したい衝動に駆られる。
そのとき、間の抜けた声が背後から聞こえた。
振り向くと、夜道をふらつく麻婆豆腐の姿がある。ゆっくりと近づいた。月明かりに照らされたナカジマの表情を見て、一瞬、麻婆豆腐の肩が揺れる。
「おい、ナカジマ。なんて顔―――」
「黒髪の女の子、見なかったか」
余計な話は遮るように尋ねる。
麻婆豆腐は首を傾げる。
「女? さあ……あ、でも」
でも。
その一瞬で心臓が止まる。
「結構前にagjtmとすれ違ったなwwなんか、やたらやばい顔してフラフラしてたわwww」
音が遠のく。
agjtm。
その名前を聞いただけで、全身の毛穴が凍りつく。あいつのユキを見る視線や、距離感を思い出す。そして、自分が距離を置いてしまった事実も。
守ったはずの理性が、いま何も守れていない。
血の気が引くという言葉だけでは足りない。血が全て抜け落ちたような感覚だ。
「どこだ」
低い声に、麻婆豆腐がわずかに怯む。
「東区画の方にあいつのシェルターなかったか……」
最後まで聞かずに走り出す。
怒りや嫉妬ではない。ナカジマの心を占めるのは純粋な恐怖だけだった。
あの肢体を、触れられていたら。
自分以外の男に、抱き上げられていたら。
守るという役目を、他の男に奪われていたら。
ああ、無理だ、殺してしまう。
呼吸は荒れ、足は限界を訴えるが無視する。
東区画の建物が見えた瞬間、先程までの恐怖が嘘のように、胸の奥が静かになっていく。まるで嵐の前のような静寂だ。
――もし中で。
その先を考えるのをやめる。
「待ってろ」
それは祈りでも命令でもない。取り戻すという宣告だった。
扉に向かって、拳を振り下ろす。
――ドン。
音が、明け方の空を裂いた。




