硝子の道
食欲を擽る匂いが鼻腔を翳める。
ナイフを入れると黄身がとろりと零れそうな半熟の目玉焼き。少し焼き色のついたトースト。玉ねぎとベーコンの入ったコンソメスープ。
agjtmは皿を次々にテーブルへと並べる。
ユキは椅子に腰掛けたまま、まだ半分眠たげな顔でそれを口に運び、小さく息を吐いた。
「うま」
それだけの感想なのに、なぜかagjtmには心地よい耳触りとなって、胸の深くへと沈む。
このまま、ずっとこうしていられるんじゃないかと、甘い未来すら浮かんでくる。
けれど。
食器を置いたあと、ユキはあっさりと言った。
「じゃ、そろそろ帰ろっかな」
余りにも軽い声だった。
コーヒーカップを持ってた長い指先が、わずかに揺れる。agjtmはゆっくりとユキを見た。
「……は?」
「だって、1日だけって約束だったでしょ」
さも当たり前のようにユキは言い放つ。
パンくずを指先で払う仕草は無造作で、どこまでも自然だ。
確かに、そう約束はした記憶はある。
agjtmは冷めかけたコーヒーをテーブルに置いた。
「もうすぐ朝だし。帰るね」
胸の奥が急速に冷えていく。
昨夜の温度。胸元にすり寄ってきた柔らかい重み。「あったかい」と呟いたあの声。あれは、自分だけの記憶だったのか。
自問を繰り返すうちに、表情を、完全に失う。
「……帰る?」
低く、押し殺した声が漏れる。
当たり前のことをなぜ聞いてくると言わんばかりに、ユキは首を傾げる。
「うん」
そこに疑いもためらいもない。その無邪気さが、逆に鋭い刃物のように胸を裂いてくる。
帰る?ナカジマのとこにか?何であいつなんだ。
――俺じゃ、ダメなのか?
今にも狂いそうな憤りとは裏腹に、声だけは温度を失っていく。
「約束、だったよな」
平坦な声で返すと、ユキは素直に頷く。
agjtmの表情は全く見ない。
ユキなりの感謝のつもりだろうか、皿だけは綺麗にまとめてる。
「うん。だから帰るね」
その瞬間、agjtmの手がユキの腕を掴んだ。
昨夜ぎりぎりで押しとどめた理性が、音もなく崩れ落ちていく。
……一日だけだと、自分で言った。
帰すと約束した。触れないとも。
理屈ではわかっている。ここで手離せば、まだ引き返せる。また別の計算を練ればいい。それだけだ。
焦るな。勝負は長い。ここで壊せば、次はない。
……わかってる。
でも、帰った先で、あいつの胸に顔を埋める姿が浮かぶ。
「あったかい」と、同じ声で呟く姿が。
その想像だけで、思考が灼けつく。
耐えられない。
「……帰さない」
静かな声だった。怒鳴りも威圧もない。ただ、決定事項のように落ちる。
ユキは一瞬ぽかんとする。薄桃色のくちびるから小さな白い歯が覗く。
――渡さない。そのくちびるから内臓まで、全部俺のものだ。
「え?」
「帰さない」
今度ははっきりと。焦点の定まりすぎた目が、真っ直ぐにユキを射抜く。感情を削ぎ落とした表情の奥で、何かが静かに燃えている。
ユキは眉をひそめる。
(あ、めんどくさ)
だが表情には出さない。余計拗れそうだ。
「でも、1日だけって約束したじゃん」
できるだけ穏やかな声で続ける。
「約束守らないの、嫌い」
agjtmの呼吸が浅くなる。
「俺は、嫌いじゃない」
「は?」
「約束なんてどうでもいい」
テーブルに置いた手が、ゆっくりと握られる。
「ユキが、ここにいるほうが大事だから」
そう言ってagjtmは、ユキの白く細い手首に自分の親指を這わせる。
そこに怒りや悲しみはない。でも、もう決めてる。それだけだった。
数秒の沈黙。
ユキはゆっくり瞬きをする。
(なんか説明するのめんどいな)
理屈も感情も、全部が億劫だった。
(もう帰ろ)
椅子を引く音が静かに響く。視線を逸らすこともなく立ち上がり、出口へ向かって歩き出す。
「……待て」
低い声が追うが、ユキはもう返事をしない。
立ち上がって踵を返そうとした瞬間、腕を強く引かれた。
衝撃で体がよろめき、テーブルにぶつかる。端に置かれていたグラスが宙に浮き、次の瞬間、床に叩きつけられた。
甲高い音とともに、透明な破片が四方に散る。
「絶対に、帰さない」
「二度と外になんて出さない」
掴む力は強いのに、どこか声は崩れている。赤くなった目が必死に何かを押し殺していた。
縋るようで、でも手だけは離さない。
ユキはその顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を外した。
(だるいな……)
本当に、めんどくさい。
「触らないって約束破った」
静かな声で告げる。
「帰さないって言うし」
「嘘つきじゃん」
その一言で、agjtmの指がわずかに緩む。ユキは腕を振りほどいた。
床には割れたガラスが散らばっている。
それでも、躊躇することなく一歩、踏み出す。
剥き出しの足が、粉々に飛び散った硝子を踏みしめる。
鋭い痛みが足裏を貫くが、止まらない。
もう一歩。
赤い線が床に残る。
「……っ、おい!」
agjtmの顔色が変わる。
血が滲み、白い大理石の床に滴る。それでもユキは眉ひとつ動かさない。
痛みよりも、引き止められることのほうがずっと煩わしい。
「離して」
振り返らずに言う。
「帰るだけだから」
声はどこまでも平坦だった。
硝子を踏みしめる裸足が、帰り道を作るように赤く線を引く。
昨夜の甘さは、音を立てて砕け散っていた。




