眠れない夜
オムライスを食べ終え、歯磨きまで済ませたユキは、満足したように小さく息を吐いた。そのまま、ほとんど力が抜けるようにベッドへ身体を預ける。皿はテーブルに置かれたまま、片付けるという発想すら浮かんでいないらしい。
靴下も履いていない足が、白いシーツの上でだらりと揺れる。
「ねむい……」
唐突な宣言だった。
agjtmは腕を組んだまま壁にもたれていたが、わずかに眉を動かす。
「だからって、そこ俺のベッド――」
言い終える前に、ユキはころりと横になった。遠慮という概念が抜け落ちている。シーツに頬を擦りつけ、毛布を無造作に引き寄せる。その仕草には警戒も躊躇もない。
「……しらない」
半分夢の中に沈みかけた声。
拒絶されたと思えば無関心、謝罪は流され、飯を作らせた挙句、当然のように寝床を奪う。主導権を握るつもりでいたはずなのに、振り回されているのは明らかに自分だった。
「……はあ」
頭を掻きむしりながら、短く息を吐く。
クローゼットから予備の毛布を取り出し、床に広げる。隣に潜り込むという選択肢が浮かばなかったわけではない。ただ、それを選ぶにはまだ理性が残っている。
紳士だからか。 壊れる自分を恐れているからか。 正直な理由は、後者だ。
電気を落とすと、部屋は静まり返った。窓の外の灯りが薄く差し込み、輪郭だけを浮かび上がらせる。
ユキの寝息が、規則正しく響く。
早すぎる入眠だった。
ほんの数時間前まで、あんな冷めた目をしていたのに。
今は、丸くなって眠っている。
無防備という言葉では足りない。まるで、警戒心という器官そのものが機能していないようだった。
「ほんと、なんなんだよ」
小さく呟く。
利用するはずだった。 依存させる算段まで立てていた。
なのに、意識のほとんどを持っていかれている。
ごそり、と布団が動く。
次の瞬間、ユキの身体がベッドの端から滑り落ちた。
「おい――」
反射だった。
床から身を起こし、落下しかけた身体を抱き止める。勢いのまま胸元に収まり、柔らかな重みが腕にかかる。
一瞬、思考が止まる。
近い。いや、近すぎる。
寝顔が視界いっぱいにある。頬が触れそうな距離。仄かな甘い香り。微かな寝息が首筋をくすぐる。体温が、直に伝わる。
(……胸、でか……)
最悪な感想が浮かび、自分で自分を殴りたくなる。
(だめだ、考えるな)
視線を逸らす。意識すればするほど、匂いも重さも柔らかさも鮮明になる。逃げ場のない現実だ。
そのとき、ユキが小さく身じろいだ。
無意識のまま、agjtmの服をきゅっと掴む。
そして、胸元へ額をすり寄せるようにして、かすれた声を零す。
「……あったかい」
夢の底から浮かんだような声だった。
甘えでも誘惑でもない。ただ、安心した子どもの独白。
心臓が、強く跳ねる。
「あったかい、か……」
掠れた声で返すが、ユキはもう深く沈んでいる。
掴んだ指が離れない。
むしろ、逃げられないようにするみたいに力がこもる。
「…まじかよ…」
苦笑が漏れる。天を仰ぐ。
持ち上げてベッドへ戻そうとするが、指は解けない。ほんの少し引いただけで、無意識のままさらに強く握る。
必死だ。
それが、余計に胸を締めつける。
仕方なくベッドの端に腰掛ける。
ユキは安心したように額を押しつけ、規則正しい寝息を続ける。その呼吸が、じんわりと服越しに伝わる。
あたたかい。
体温だけではない。
胸の奥に、蝋燭の火が灯るような感覚。
奪う側でいる方が、ずっと楽だった。
なのに。
こいつの無意識の一言に、俺は縛られてる。
(さっきからブレすぎだろ、俺…)
床で寝るはずだったのに、結局そのまま壁にもたれ、ユキを抱えたまま夜をやり過ごす。
目を閉じるたび、胸が締めつけられる。
「マジで、扱い困る……」
小さく呟いても、返事はない。
夜は長い。
腕の中に収まるユキの体温は、服の布地を透かし、agjtmの肌にぴったりと貼り付いてくる。
寝返りを打つたびに、ユキの細い指先がagjtmの胸元を無意識にまさぐり、柔らかな重みが心臓を直接圧迫した。
離せば済む。
腕の力を解き、その細い肩を押し戻せばいい。それだけの話だ。
なのに、agjtmの指先は、ユキの背中に回したまま、むしろその輪郭を確かめるように僅かに力を込めてしまう。
この温もりを手放すことが考えられない。
(……やばいな、これ)
暗闇の中、agjtmは吐き捨てるように自嘲した。
一晩中、ユキのうなじから漂う甘い香りに肺を焼かれ、胸元に当たる柔らかな質感に、かつてないほど「男」としての本能を逆撫でされ続けた。
抱いているつもりで。
気づけば、自分のほうが捕らわれている。
一睡もできないまま、agjtmは窓の外を見つめる。
その心地よさに抗うことを、彼はもう、朝が来る前に諦めていた。




