静かな夜
「ちょっと、外行ってくる」
そう言い残して、ナカジマは部屋を出ていった。
人工の夕焼けがオレンジから紫へ、重なり合って溶けていって。
窓の外では昼と夜の境目が曖昧になっていくのに、ユキの時間だけが、そこで止まったままだった。
ベッドの上で膝を抱える。背中を丸めたまま、動かない。
ドアを見る。端末を見る。またドアを見る。
同じ事ばかりを繰り返す。
でも、足音だけは戻らない。
(……まだ?)
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
昨日までは、当たり前にそこにいた。
近すぎない距離で。触れずに、ただ寄り添ってくれたのに。
「……やだ」
声は小さく、ほとんど空気に溶ける。
理由は考えられない。もう考える余裕がない。
ただ、いないという事実だけが、じわじわと心を蝕んでいく。
気づいたときには、立ち上がっていた。
考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
ドアを開ける。上着も着ない。靴も履かずに。
裸足のまま廊下へ出る。
床の冷たさが足裏を刺すが、感覚はどこか遠い。
月明かりにユキの白い肌が照らされる。
「……ナカジマ」
祈りをこめるように、小さく名前を呼ぶが、返事があるはずもない。
夜風がシャツの隙間を抜け、肌を撫でる。
でも、寒さは感じなかった。
(……会いたい)
乱れた髪に、焦点の合わない視線。
ふらりと歩く姿は、夢と現実の境目に立っているみたいだった。
誰かが見たら夢遊病患者だと思うだろう。だが、誰もいない夜道に、ユキを連れ出す者はいなかった。
外は静まり返っている。
街灯の光はまばらで、夜闇に染まっている。
「……ナカジマ……」
名前だけを、繰り返す。
そのとき。
「……ユキ?」
振り返ったその姿に、agjtmの思考が完全に止まった。
白いシャツ一枚の身体が、街灯に照らしだされる。
背は低く、肩幅は狭い。
腕は細く、指先まで骨の形が分かるほど繊細だ。
風が吹くたび、布が肌に貼りつく。
その下の輪郭が、隠す気もなく表れる。
男の身体じゃない。
確信が、遅れて落ちてくる。
喉が鳴る。
視線が止まらない。
首筋。
鎖骨。
胸元の丸みが、呼吸に合わせてゆっくり上下する。
“作り物じゃない”。
むしろ前の姿の方が、どこか作り物じみてた。
あの時抱いた違和感は、間違ってなかった。
こいつは最初から、女だった。
そう理解した瞬間、胸の奥に熱が走る。
欲望というより、捕食に近い衝動だった。
改めて足首、太腿、腰、胸、首筋と、下からゆっくり舐めるように鑑賞する。
壊れやすそうだ。
今ここで腕を掴んだら、驚いて固まるだろう。
声を上げる前に口を塞げる。
壁に押し付ければ、抵抗する力はない。
夜だ。人もいない。
――やれる。
その具体性が、異様に鮮明に浮かぶ。
自分の手が、あの細い肩に食い込む感触まで想像できる。
驚きで見開かれる瞳。
呼吸が乱れる音。想像するに容易い。
一瞬。
本当に一瞬、口元がわずかに緩む。
自分でも気づくほど、昏い笑み。
(ああ、いるな)
胸の奥に、理屈じゃない何かが。
獣だ。
衝動のままに壊してみたいという、原始的な本能。
守るとか奪うとか、そんな生易しいもんじゃない。
自分の手で。目の前の女がどんな壊れ方がするか見てみたい。
想像するだけで背筋がゾクゾクする。それが甘くて、仄暗い。
一歩、距離を詰める。
ユキの体温が近づく。浅い呼吸を繰り返す唇に貪りつきたくなる。
無防備すぎる。
「……なに、それ……」
興奮が隠しきれず、声が少し低くなる。
視線は逸らせない。
自分の中の獣は姿を見せてるのに、ユキはそれに気づかない。
目は別の場所を見ている。
「……ナカジマ、さがしてる」
その名前が落ちた瞬間、本能にブレーキがかかる。
ただ奪うだけじゃ足りない。
ここで触れれば、それはそれで楽しいだろう。
だがそれだけでは、浅い。
壊すなら、もっと深くまで。
その方がいい。もう自分以外に戻れなくなるまで壊す。
まだ獣はいる。でも、今は飼い殺す。
一瞬外れかけた理性を、自分で首根っこ掴んで引き戻す。
(今じゃない)
口元の笑みは消える。
代わりに、整えられた優しさを浮かべる。
「俺、見たよ」
滑らかに嘘を吐く。
この壊れかけの女に伝わるように、一語一語丁寧に。
「ナカジマ、さっき俺の部屋の方に向かってた」
手を差し出す。
さっきまで壊す想像をしていた手。
だが今は、穏やかさで包み込んでひた隠す。
「案内するよ。寒いだろ」
蕩けるくらい甘い声を出す。
ユキは一瞬だけ迷う。この男がこんな声を出したことがあったかと。
ほんの小さな違和感が胸をちくりと刺す。
それでも。
「……うん」
恐る恐る差し出される小さな白い指先。
温かい。柔らかい。
その瞬間、獣がもう一度だけ喉を鳴らす。
だが、動かない。こちらからは強く握らない。
まるで宝物を扱うみたいに、指先を包み込むだけ。
完璧な擬態のまま、歩き出す。
壊すなら、心から。
逃げ場をなくしてから。
自分を選ばせてから。
そのときは、全てを食い尽くす。
夜は静かだった。
理性が勝ったわけじゃない。
狩りを遅らせただけだ。




