擦り切れる理性
鏡越しに、ユキが微笑んだ。
それだけで、胸の奥を掻きむしりたくなる。
嬉しいのに、苦しくて。どうしようもなくて。
(……誘ってるのか?)
そんな考えが、一瞬、頭を掠める。
――違う。
すぐに、首を振る。
傷つけない。守る。
そう、決めた。
櫛を持つ手に、無意識に力がこもる。
汚い感情は、全部、胸の底に沈めて殺す。
見なかったことにする。
感じなかったことにする。
なのに、いくら己を諌めようとしても、身体はどうしようもなく反応してしまう。
白い首筋。
髪の隙間から覗く、うなじ。
ほんのり色づいた耳の裏。
細くて、折れそうな肩のライン。
勝手に視界に入り込んで、網膜の裏に、焼き付く。
(……最低だ)
そう自分を否定するしかないくらいには、ナカジマの理性は限界がきていた。
櫛を持つ指先が震える。
呼吸が、浅くなる。
息を吸っても、肺に届かない。
胸の内側が、じわじわ熱を持つ。
部屋が、やけに狭く感じる。
震える手を諌めながら、櫛を動かすたびに、
指先が、その柔らかな肌を掠めそうになる。
「……っ」
喉が鳴り、思わず息を詰めた。
限界だった。
これ以上、ここにいたら。
――壊れる。
「……ユキ」
声が、わずかに掠れる。
「ごめん」
理由は言わない。
言えるわけがない。
「ちょっと……外、行ってくる」
それだけ告げて、
ユキが不思議そうに見上げる前に、ナカジマは背を向けた。
ユキの部屋を出た瞬間、ナカジマは、廊下の壁に背中をつけて、深く息を吐いた。
「……っ」
身体の熱が内側にとぐろのように渦巻いて、発散する場所を探してる。
――まずい。
はっきり、そう思った。
さっきまで。 あの部屋で。 あの距離で。 あの空気で。
髪を梳いて。 鏡越しに目が合って。 微笑まれて。
それだけなのに。
体の奥が、勝手に熱を持った。
(……クソ)
拳を、ぎゅっと握る。爪が掌に食い込む。 痛い。 でも、そのくらいじゃ足りない。
足りないくらい――今の自分は危ない。
裏切るなんて微塵も考えてない、逃げ場を全部預けきった目。
自分が無害な人間だからこそ、ユキは傍にいさせてくれてる。
それはナカジマが一番わかってた。
(…触れるわけねえだろ)
喉の奥で、低く唸る。
守るって決めたくせに。 世話するとか言っておいて。
結局、欲しがって、独り占めしたくなって。
(ほんと、終わってる)
壁に額をつける。
ひんやりした感触に、少しだけ正気に戻る。
ユキは、壊れている。
今は。
何も判断できないし、拒めないし、選べない。
全部を、俺に任せてる。
その状態で、もし俺が一歩踏み込んだら。
――終わる。完全に。
取り返しがつかない。
「……行くな」
小さく、自分に言い聞かせる。
「今日は……行くな……」
部屋に戻れば。
また、あの顔を見る。また、あの距離になる。 また、理性が削られる。
分かってる。俺は、強くない。むしろ弱い。
ずっと欲望を溜め込むタイプだ。 我慢して、我慢して、 限界まで我慢して。
最後は崩れた防波堤のように決壊する。
だから今は、距離を置かないと。
(全部、奪ってしまう)
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。でも、ちっとも楽しくなんてない。
端末を取り出す。チャットを開く。
『少し遅くなる』
打って、消す。 打って、消す。
結局、送るのをやめる。
言い訳したら戻りたくなるから、黙って逃げるしかなかった。
ユキのため、いや、自分のためにだ。
ナカジマは、ゆっくり歩き出した。
ユキの部屋とは、逆方向へ。
歩いてても、脳裏に浮かぶのはユキだけ。
引き返したい。 戻りたい。 抱きしめたい。
でも。それをやったら終わる。
(明日でいい)
(……今日は、ダメだ)
何度も、心の中で繰り返す。
今は、その言葉に縋るしかない。
ユキの部屋の明かりは、 背後で静かに灯ったままだった。
ナカジマは、振り返らなかった。




