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負けたままの名前【agjtm回想】


中学三年の春。

教室の窓から吹き込む風は、やけにあたたかかった。

なのに胸の奥だけ、妙に冷えていた。



「なーなー」


昼休み。

机に肘をついたまま、隣にいる親友を見る。

話題の中心はいつも自分の好きな女の子だった。


「今日もさ、茜かわいくなかった?」

「またそれかよ、葵」


親友は笑う。


「葵って、ほんと茜のこと好きだよな」

「好きだよ」


即答だった。

隠す理由も、疑う理由もなかった。

そして、それを親友に話す瞬間も、ひとつひとつが特別だったから。


「マジで好き。やばいくらい」


体育のとき転びそうになったのを助けたのは俺だとか、髪がちょっと巻いてあったとか、全部、こいつにだけ話していた。


「絶対いけるって」


親友はいつも言った。

笑顔で話を聞いてくれて、そっと背中を押してくれる。一番大事な存在だった。


「茜も、お前のこと好きだと思うぞ」

「まじ?」

「まじまじ。頑張れよ、葵」


だから――疑うなんて、思いつきもしなかった。



卒業式の日。

夕陽が沈みかけた体育館の裏。


「……なぁ、葵」


話があると、呼び出されて向かった先。

親友が、妙に真面目な顔をした。


「俺さ……茜と、付き合ってた」


瞬間、世界が止まった。


「……え?」

「結構前から。言い出せなくて、ごめん」


申し訳なさそうで、でもどこか安堵した顔。

やっと言えた、と言葉にしなくても伝わる。


(ああ)

(それで、お前は楽になれるんだな)


喉の奥が、ひりつく。


(“ごめん”って言えば済む側と)

(何も知らずに話してた俺)

(どっちが、馬鹿だ?)


「……あ、そう」


それだけ言った。それ以上は、何も出てこなかった。

怒りも。 悲しみも。 裏切られた気持ちも。

全部、そのあとだった。

最初に来たのは――恥だった。


(……違う)

(“ごめん”じゃねーよ)

(お前、どんな顔で聞いてた?)


俺が茜の話をしていた昼休み。 体育のあと、汗だくで笑いながら。 「絶対いけるって」って言われて、本気で信じたあの瞬間。


(俺が茜を思い出して眠れなかった夜、お前は何してた?)

(俺が相談してた時間、お前は――)


全部、繋がる。

笑っていた横顔。 背中を押した声。 「頑張れよ」の一言。


(あれ、全部)

(俺だけが、本気だったのか)


胸の奥が、ぐちゃ、と音を立てる。

怒りじゃない。悔しさでもない。


(俺、滑稽じゃん……)


それだけだった。

でも何かが、そこで壊れた。




その夜。

自室の机に向かい、パソコンを開いた。

新しいアカウントを作ろうと思った。

新しい場所で、新しい自分になるために。

名前を入力する欄に、指が止まる。


――aoi


打ちかけて、止まった。

画面に浮かんだその三文字を見た瞬間に、体育館裏の夕焼けが蘇る。


「頑張れよ、葵」


葵。何食わぬ顔であいつが呼んできた名前。

喉が焼ける。舌が渇いてくる。


消す。

全部、消す。

叩きつけるようにDeleteキーを押す。


(こんな名前、もういらない)


震える指が、考えるより先にキーを叩く。

左から右へ、ただ感情のままに。


a g j t m


意味なんてない。響きもよくない。

ただの記号の羅列。

でも、それでよかった。


(これなら、誰も俺を知らない)

(これなら、俺も“葵”を名乗らなくていい)


エンターキーを押す。


――agjtm

何者でもない自分が、完成した。



それからagjtmは、本音を三割しか出さなくなった。

好きな人ができても。

誰かと仲良くなっても。

七割はしまっておく。


(こいつも、いつか俺を笑うかもしれない)


大学でも、会社でも、恋人ができても。

踏み込まれそうになったら自然と引いた。

期待されそうになったら距離を取った。

失うくらいなら、最初から持たない。

そのほうが、ずっと楽だった。


夜。

ソファに沈み込み、スマホを眺める。

《家族でお花見》

写真。

笑う男。

隣の女。

腕の中の生まれたばかりの子ども。

何も失っていない顔。

agjtmは、五秒だけ見つめた。

それから画面を伏せる。


(俺は)

(まだ、あの日のままだ)


体育館の裏で立ち尽くした、中学三年のまま。

負けたままの名前を、まだ引きずっている。

次から第四部始まります。

今更ですが、真面目にIRIS OUTの歌詞見てみたんですが、え、これナカジマの気持ちか?ってくらい盲目恋愛ソングで、すごく好きになりました。

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