すくいににたのろい
布団が、音もなく、ゆっくりと滑り落ちていく。
まるで、躊躇っているみたいに。
最後に逃げ道を探しているみたいに。
黒い髪が肩に流れ、白い首筋が露わになり、細い鎖骨の影が淡く浮かぶ。
涙に濡れた睫毛が重なり、火照った頬が微かに艶を帯びている。
わずかに開いた唇から、浅い呼吸が零れるたび、胸元の布がかすかに上下する。
その内側の重みが、呼吸に合わせて揺れた。
細い。
壊れそうだ。
なのに。
―――あまりにも、女だった。
「…………」
ナカジマの思考が、一瞬、途切れる。
視界が白くなる。
音が遠のく。
次の瞬間、胸の奥から、獣みたいな衝動がせり上がってきた。
抱きたい。
だめだ。
触りたい。
分かっているのに。
なのに、手が、勝手に――
(……やめろ)
奥歯を、強く噛み締める。
(見るな)
(考えるな)
(欲しがるな)
必死に命じる。
――なのに。
視線は、絡みついたまま離れない。
一度絡んだら、もう剥がれない。
逃げてくれない。
欲情が、熱になって腹の奥に溜まっていく。
呼吸のたびに、それが広がって、理性の逃げ場を塞いでいく。
皮膚の下を這い回るみたいに、じわじわと。
同時に、別の感情が背骨を冷やした。
(触ったら壊す)
(近づいたら終わる)
(奪ったら……全部失う)
守りたい。
壊したくない。
でも、欲しい。
三つ巴の地獄。
息が浅くなる。
喉が、灼けつくような熱さをもつ。
今にも、欲望の箍が外れそうだ。
そのときだった。
ユキが、わずかに顔を上げた。
濡れた瞳が、こちらを見る。
怯えているのに、縋るような。
線を引いてるみたいで、どこか、無防備な。
――世界が、反転した。
五月雨。
濡れた歩道。
自販機の軒下。
傘も持たずに立っていた、小さな少女。
『すごく、疲れてる顔してます』
彼女の声や、匂い、湿った空気が、ついさっきの出来事のように流れてくる。
あの日の、柔らかすぎる笑顔。
(ああ)
心臓が、異常な音を立てた。
(嘘だろ)
重なる。寸分違わず。
記憶の中の少女と、目の前の女が。
(お前かよ……)
喉が、完全に詰まる。
(…ずっと…)
理解してしまった。
人生が狂った起点。
一度だけ、夢に見た。
目の前の女じゃなくて、
あの雨の日の少女を抱きしめている夢を。
でも、全部。
ただの、予定調和だった。
(……俺の人生)
(……最初から、お前のもんじゃん)
笑いそうになる。
泣きそうにもなる。
救われたと思っていた。
壊されただけだった。
それでも。
今でも欲しい。
ユキ以外考えられない。
完全に、終わってる。
「……だれにも、いわないって……やくそくして」
ユキの声は、かすれていた。
震えているのに、逃げてはいない。それくらい誰かに頼りたかったんだろう。それがこんなストーカー男でも。
見ていい。でも、誰にも渡すな。残酷すぎる許可だ。
まるで胸に、二度と抜けない楔を打ち込まれたみたいだ。
「……言わない」
即答だった。
「誰にも言わない」
「……一生」
逃げ場のない誓い。
視線を逸らしたら、全部壊れる気がした。
だから、逸らさない。
拳を強く握る。爪が掌に食い込むほど。
触りたい。
抱きしめたい。
奪いたい。
全部、殺す。
この衝動も。
この欲も。
逃げたい気持ちも。
全部、ここで、潰す。
「……俺が、守るから」
掠れた声で、必死に言う。
「誰にも触らせない」
「…ずっと、守る」
それは祈りみたいで。
同時に、首輪だった。
ユキは答えない。
ただ、布団を掴んで、小さく震える。
その姿を見ながら。
ナカジマは、はっきりと理解する。
――この女に、一生縛られる。
壊されて。
縋って。
欲して。
救われたと錯覚して。
それでも、死ぬまで離れたりしない。
第3部終了です。ここまで読んでくださった方ありがとうございます。
次は、agjtm回想話が23:20くらいに更新されます。




