すべてをしる
ユキがいなくなった。
それ自体は、珍しくない。
気まぐれに部屋へ戻ることもあるし、急に姿を消すこともある。
けれど、今日の“消え方”は、妙に引っかかった。
ナカジマは、広場の隅で立ち尽くしていた。
さっきまで、少し離れた場所で、ユキとagjtmが話していた。
会話の内容までは聞こえない。ユキに顔も見たくない、と言われたから近付かない。
それでも。
ユキの肩が、一度だけ、わずかに揺れたのが見えた。
ほんの一瞬。
誰も気づかないほどの、小さな揺れ。
――なのに。
それが、胸の奥を削った。
考えれば、あの時からユキの様子はおかしかった。
agjtmに何を言われたんだ。無責任な怒りだけが湧き上がってくる。
次の瞬間、ユキは、そのまま姿を消した。
ただ、部屋へ戻っただけの動きに見える。
ナカジマは、気づけば歩き出していた。
ユキの気が済むまで。しばらくは、距離を置く。
それが、自分に課したルールだった。
でも今日は―――
その違和感が、胸の奥に貼りついて、どうしても剥がれなかった。
ユキの部屋の前に立つ。
扉は、固く閉じている。
チャットを送るが、既読はつかない。
いつもなら、無言でも反応だけはある。今日は、それすらない。
胸の奥が、にわかにざわつく。
呼吸を整えようとして、整わないことに気づく。
いてもたってもいられなくなり、ドアノブに手をかける。
冷えきった感触。まるで入ることを拒むかのような。
「……ユキ」
声は、思ったより小さかった。
呼びかけというより、懇願だった。
返事はない。
ナカジマは迷った。
踏み込む資格なんてない。
同室者でもない。
ただの、気持ち悪いストーカーだ。
分かっている。
それでも。
胸の奥が、理由もなくざわついて、逃げるという選択肢を許さなかった。
鍵は、内側から二重にかかっている。ユキらしい。
ナカジマの指が、わずかに震えた。
「……開ける」
自分に言い聞かせるように呟き、解除手段を使う。
カチリ、と小さな音が響いた。
鍵が外れる。
扉が、静かに開いた。
足元もおぼつかないくらいに、部屋は暗かった。
照明は消えたまま。
カーテンの隙間から、細い光だけが差し込んでいる。
薄暗い室内の奥で、何かが小さく動いた。
視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。
シェルターに割り当てられた簡易ベッド。
正確には、その上に積まれた布団の塊が、不自然に盛り上がっている。
まるで、中に何かを閉じ込めて、必死に隠しているみたいに。
「……ユキ」
喉の奥が、ひりつく。
返事はない。
代わりに、布団がほんのわずかに揺れた。
「ユキ」
もう一度。
今度ははっきりと。
「……こないで」
かすれた声が返ってくる。
でも、いつものユキの声とは明らかに違った。
高くて。
柔らかくて。
綿菓子のようにほどけそうな脆い声。
ナカジマの背中を、冷たいものが走る。
(……なんだ、これ)
足が、勝手に動いた。
音を立てないように、怯えさせないように。
ベッドの縁に、そっと腰を下ろす。
軋みは、ほとんど鳴らなかった。
「……見ないで……」
布団の中から、弱々しい声。
今までのユキには、なかった音だった。
壊れそうで。
触れたら崩れそうで。
「……わかった」
ナカジマは、すぐに答えた。
「見ない。見ないよ」
「でも、そばにはいる」
声を、できる限り低く。
ガラス細工を扱うみたいに、慎重に。
「どこにも行かない」
それがユキが欲しがってる言葉かはわからないけど、そう言いたくなった。
しばらくして。
布団の内側から、小さな音がした。
吸い込む息。
震える吐息。
――嗚咽。
押し殺そうとして、失敗している音。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……っ」
思わず、拳を握る。
守りたい。
誰にも渡さず、このまま閉じ込めてしまいたい。
世界で自分だけがユキを知っていたい。
でも、それをしたら終わる。
壊してしまう。
だから、動かない。ただユキが話してくれるのを待つ。
「……お願い、聞いてくれる?」
しばらくして、絞り出すようなか細い声が布団の中から聞こえた。
「聞くよ」
即答だった。
反射みたいに。
「今から…私のこと、見ても……」
少し、間が空く。
「……誰にも、言わないで」
ナカジマは、息を止めた。
そして、ゆっくり頷く。
「……わかった」
「誰にも言わない。絶対に」
その言葉を聞いた瞬間。
布団が、少しずつ下がっていく。
ゆっくりと。
布団の隙間から覗く、震える指がやけに細い。
躊躇うみたいに。
黒い髪が、こぼれ落ちる。
細い肩が、露わになる。
そのラインは、今までよりもずっと柔らかくて。
光を含んだみたいに、淡く揺れていた。
そして。
布団が、完全に外れる。
そこにいたのは。
――女のユキだった。




