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ユキは部屋に戻ると、鍵を二度、確かめるように回した。

一度で足りることは分かっている。

それでも、二度回さないと落ち着かなかった。

ガチャリ、と乾いた音がして、ようやく背中の力が抜ける。

ドアに背中を預けたまま、ずるりと床に座り込んだ。

息を吐こうとしても、喉の奥に何かが詰まったみたいで、うまく外に出てこない。

心臓が、本来あるべき場所からずれてしまったみたいに、不規則に鳴っている。


(……空虚)


耳の奥に、まだ声が残っている。

agjtmの、あの低い声。

怒鳴られたわけでもない。責められたわけでもない。

それなのに。


(持ってるものなんて、最初からない)


何度も、何度も、頭の中で再生される。

ユキは、そっと唇を噛んだ。

血が出るほど強くは噛まない。

ただ、現実にしがみつくための、小さな痛みが欲しかった。

自分が何も持っていないなんて、嘘だ。

優しさも、距離も、黙って受け入れる態度も。

ちゃんと分かってる。

分かっていて、使ってきた。

だからこそ、「空虚」という言葉は、致命的だった。

一番触れられたくない場所を、正確に刺してくる。


鏡の前に立つ。

そこに映るのは、見慣れたはずの、男の身体。

なのに今日は、磨りガラス越しに見ているみたいに曖昧で、自分の肉体というより、借り物の殻を見ているようだった。


―――私は、何。


問いは、答えにならない。

代わりに喉が詰まる。

息を吸うたび、胸の内側が冷たい針で刺される。

その場に崩れるように、横たわる。

殻に閉じこもるみたいに、背中を丸める。


(俺のこと、見ないだろ)


耳を塞ぎ、小さく首を振る。

否定したい。でも、できない。

だって、確かに自分は見ていない。

見ないふりをしてきたから。

壊れるのが怖かったから。

床の冷たさが、頬に伝わる。

なのに、胸の奥は、焼け残った灰みたいに、じりじりと熱を持っていた。

呼吸が乱れ、喉がきゅっと縮む。

うまく息が吸えない。


「……っ」


変な音が、漏れる。

泣きたくなかった。今まで、ずっと我慢してたんだ。まだ、大丈夫。

そう言い聞かせても、視界が滲んで、瞬きしても戻らない。

頬が、濡れる。

気づいたときには、もう遅かった。

涙が、ぽろぽろと溢れ始める。

止めようとしても、止まらない。

肩が、小刻みに震える。

喉の奥から、嗚咽がせり上がってきて、それを必死に噛み殺す。


声を出したら、全部壊れそうで。

音を殺したまま、泣き続ける。


重力に逆らえない水滴が落ちるように、ユキの内の「男」が、ぽろぽろと零れ落ちていく。


じんわりと、熱が広がる。

肩が、わずかに削れるように細くなる。

腰のラインが、望んでもいない柔らかい丸みを帯びる。

胸のあたりが、今までになかった重さを主張し、服の繊維を内側から押し広げる。

喉の違和感が、溶けるみたいに消えていく。

服が、少しずつ、大きく感じられる。

ユキは、震える手で、床に手をついた。


細い指。

小さな爪。

白い手首。

見慣れないほど、華奢だった。

呼吸が、途端に浅くなる。

ゆっくりと、鏡を見る。

そこにいたのは、女のユキだった。


涙で視界は揺れている。

それでも、はっきり分かるほどに、整っていて、綺麗で、だからこそ嫌だった。

濡れた睫毛。

淡く上気した頬。

微かに震える唇。

弱々しいのに、危うくて、妙に色っぽい。

守られなきゃ壊れるくせに、誰かを狂わせる顔。


戻ってしまった。

いや、「戻った」のではない。もう、どこにも戻れなくなったのだ。

身体が、それを一番よく分かっている。

怖い。

外に出られない。

知られたら、終わる。

ユキは、しゃがみ込み、口元を押さえる。

嗚咽を、必死に殺す。

泣くほどに、女である実感が強くなる。逃げ場がなくなる。


(……やだ……)


――こんなの、ただの呪いだ。

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