刷り込み
ユキは、歩きながら、さっきのナカジマの顔を何度も思い返していた。
行き場を失ったみたいに揺れる瞳。
縋るようで、怯えるようで、それでも必死にこちらを見ていた視線。
捨て犬みたいで、惨めで。
少しだけ、可愛かった。
(…私って、最悪)
軽い気持ちで弄んだだけだった。
壊すつもりなんてなかった。
ただ、自分の存在を確かめたかっただけなのに。
なのに。
思い出すたび、胸の奥を優しく掴まれるみたいな、甘い痛みが走る。
指先が、無意識に唇をなぞっていた。
まるで、何かを欲しがるみたいに。
(ほんと、重症かも)
自嘲気味に息を吐いた、そのとき。
「お、ユキじゃん」
背後から、軽い声。
振り向くまでもなく分かる。
agjtmだった。
「今から一緒にデイリー行かね?」
どうせ断られる。
いつも通り、そう思って投げた言葉だった。
「ん?いいよ」
あまりにあっさりした返事に、agjtmは一瞬固まる。
「……え?いいの?」
「そっちから誘ったんじゃん」
「いや、そうだけど……」
頭が追いつかない。
普段なら、二歩は距離を取られる。
寄れば避けられる。
話せば塩対応。
それが常だった。
なのに今日は。
近い。
異様に。
吐息がかかるほどの距離で、普通に話している。
(なにこれ)
(……今日のユキ、なんか違くね?)
「なぁ、ユキ」
「なに?」
「…ちょっと近くね?」
「ん…?そう?」
曖昧な返事。
その「ん」が、やけに色っぽかった。
喉が、ひくりと鳴る。
(やば)
(これ、想像以上に来る)
同時に、冷静な自分が警告する。
ああ、これだ。
これが、周りの人間を狂わせてきたやつだ。
無自覚で。
距離感が壊れていて。
優しくて。
だから危険。
分かっているのに、抗えない。
「はやく行こ」
ユキは、何も知らない顔で言う。
少しだけ背の高いagjtmを、横から見上げながら。
(……なんだよ)
(男なのに、その顔ズルくね?)
前から思っていた。
ユキには、男らしさがほとんどない。
安心感だけがあって、危険な匂いがしない。
だから女が勝手に沼って、簡単に落ちる。
そういうタイプだと、思っていた。
でも。
今は違う。
(こいつ)
(存在そのものが、呪いじゃん)
そのとき。
ユキが、何気なく髪を耳にかけた。
さらり、と黒髪が揺れる。
次の瞬間。
甘い匂いが、ふわりと鼻を掠めた。
シャンプーでもない。
香水でもない。
人工的じゃない。
ユキそのものの匂い。
存在から滲み出ているみたいな、抗えない色香。
呼吸が、一瞬止まる。
脳が、揺れる。
「ユキ」
気づけば、名前を呼んでいた。
「ん?」
振り向く。
近い。
近すぎる。
視界が、ユキで埋まる。
「俺にだけ、優しくね?」
冗談めかして。
でも、半分は本気で。
ユキは、少しだけ考えてから。
「…別に」
素っ気なく返す。
いつものユキ。
――の、はずなのに。
「たまたま?」
小さく、付け足す。
その一言が。
致命傷だった。
(たまたま?)
(今日だけ?)
(……俺、特別じゃない?)
分からない。
分からないのに。
胸が熱い。
頭から、あの匂いが離れない。
思考が、ユキに侵食されていく。
(無理だ…)
(これ以上いたら、やばい)
「…悪い」
急に距離を取る。
「やっぱ俺、用事あるわ」
「え?」
ユキが不思議そうに見る。
でも、agjtmはもう戻れなかった。
「またな」
そう言って、歩き去る。
背中は、少しだけ震えていた。
風呂場のドアを閉めた瞬間、agjtmは大きく息を吐いた。
「……はぁ……」
無意識だった。 溜め込んでいたものが、一気に漏れ出たみたいに。
シャワーをひねる。勢いよく落ちてくる湯が、肩に当たる。
あったかい、はずなのに。
全然、落ち着かない。
(……くそ……)
壁に手をついて、俯く。
目を閉じた瞬間。
――浮かぶ。
昼間のユキ。
近すぎた距離。覗き込むみたいな視線。柔らかい声。
そして。
あの、匂い。
(やめろ)
頭を振る。
でも、消えない。
耳に髪をかけたとき。一瞬、風に混じって流れてきた、あの匂い。
甘いのに、くどくない。人工的じゃない。存在そのものみたいな匂い。
思い出すだけで、喉が渇く。
「……っ」
腹の奥が、熱を持つ。
自覚した瞬間、自己嫌悪が襲ってくる。
(何考えてんだ、俺……)
男だぞ。相手も男だぞ。しかも、俺のこと“興味ない”って言った奴だぞ。
なのに。
(……くそ……)
視線が、下に落ちる。
誤魔化しようもなく、反応している自分がいた。
「……最悪だろ……」
低く呟く。
恥ずかしさと苛立ちと情けなさで、頭がぐちゃぐちゃになる。
ユキは何もしてない。ただ普通に話しただけだ。
勝手に期待して。 勝手に舞い上がって。勝手に壊れてる。
――ナカジマと同じじゃねぇか。
その考えが浮かんで、胸がひくりと痛む。
(……あいつも、こんな感じだったのかよ……)
見て。近づいて。勘違いして。勝手に沈んで。
自分が、一番嫌ってた側にいる。
「……っ、やべぇ……」
これ以上考えたら、本当に戻れなくなる。
agjtmは、蛇口を思い切りひねった。
水。
冷水。
容赦なく、頭からぶっかける。
「……っ、冷たっ……!」
息が詰まるほどの冷たさ。
でも、止めない。
何度も。 何度も。
頭。 首。 胸。 腹。
全部に浴びせる。
(冷やせ……) (落ち着け……) (忘れろ……)
必死だった。
しばらくして、ようやく呼吸が整ってくる。
鏡を見る。
濡れた髪。赤くなった肌。情けない顔。
「……俺、何してんだよ……」
苦笑するしかない。
ユキは、誰のものでもない。まだ、誰のものでもない。
なのに。
もう、頭から離れない。
匂い。 声。 距離。 あの一瞬の表情。
(……くそ……)
タオルで顔を覆う。
「……終わったな、俺……」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
この時点で、もう分かっていた。
今日の出来事は、
“ただの一日”じゃない。
これは。
――刷り込みだ。
取り返しのつかないやつ。
もう二度と、
ユキのいない日常には戻れない。




