羽化の音
全チャでの一件以来、モユルは明らかに変わっていた。
以前のような冷静さも、周囲を見渡す余裕もない。ただ、ユキに向ける視線だけが、日に日に強く、重くなっていく。
個人チャットはほぼ監視状態だった。
【今どこ?】 【誰といるの?】 【今日は私と組むよね?】
少し返信が遅れるだけで、追撃が飛んでくる。
全体チャットで誰かがユキに声をかければ、すぐに割り込む。
【用件あるなら私を通して】
パーティの誘いは、すべて拒否。
【今は無理】
理由はない。ただ、他と関わらせないためだけの拒絶だった。
完全な囲い込み。
ユキは、それに逆らえなかった。
(……私さえいればいいって……言ってたし)
モユルは優しい。守ってくれる。心配してくれる。
だから断れない。
気づけば、ユキの世界はどんどん狭くなっていた。
誰とも深く話さず、誰とも組まず、ただモユルの隣にいるだけの存在になっていく。
そんな歪みが、周囲に影を落とさないはずがなかった。
最初に限界を迎えたのは、Laylaだった。
最近、まともにユキと話せていない。
個チャを送ってもすぐ切られる。近づけば、モユルの視線が突き刺さる。
まるで「触るな」と言われているかのようだった。
ある日のセーフティゾーン。人の多い時間帯。
Laylaは、ついに堪えきれなくなった。
「……ねえ」
震える声。
モユルが振り向く。
「なに?」
「……私のユキを、独占しないで」
その言葉に、周囲の空気が一瞬で凍った。
「……は?」
モユルの表情が歪む。
「なに言ってんの?」
「最近、私……全然話せてない……」
「だから?」
「だからって……!」
Laylaの声が荒れる。
「私だって……好きなの!」
「――ふざけんな!」
モユルが怒鳴った。
「ユキはお前のもんじゃねーし!!」
ざわり、と周囲が騒めく。
「私だって……ずっと……!」
「だから何?」
モユルはもう止まらなかった。
「私の方が一緒にいる時間長いし」
「私の方が支えてるし」
「私の方が――」
「うるさい!」
Laylaが叫ぶ。
そこへ、みっふぃが割って入る。
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着こう?」
シャンプーも続く。
「ここでやることじゃないでしょ」
だが次の瞬間。
モユルとLaylaは、ほぼ同時に二人を突き飛ばした。
「邪魔!!」
「黙ってよ!!」
どん、と鈍い音。
みっふぃとシャンプーが床に倒れる。
「……は?」
みっふぃの目が据わる。
「……お前何したかわかってんのか?」
シャンプーも立ち上がる。
「この束縛クソ女が……ッ!」
次の瞬間、女たちの取っ組み合いが始まった。
髪を掴み、押し倒し、罵声を浴びせ合う。
完全な修羅場だった。
恋歌は青ざめ、距離を取る。
「……無理……」
麻婆豆腐は呆然と立ち尽くす。
「え……やば……」
agjtmは、心底愉快そうに笑っていた。
「……最高じゃん」
ナカジマは遠くから様子を眺め、口元を歪める。
(……全部、計画通り)
その中心で、ユキは立ち尽くしていた。
「お前にユキの何がわかんだよ!!」
「ユキは私を1番見てる…っ!」
「あんたなんかより私が頼られてるんだよ!」
ユキは誰も求めてないのに、ユキを使って争いが起こる。
ユキ中心に広がる波紋。いつもそうだ。騒ぎの中心になるのはいつもユキ。
周囲の視線も重い。
「……ユキ、なんとかしろよ」
「ユキしか止められないんだからちゃんとして」
視線だけで皆が何を言いたいのかわかる。無言の圧力。
頭が、ぐちゃぐちゃになる。
息が浅くなり、視界が揺れる。
(私が止めなきゃ…)
ユキは、一歩前に出た。
でも上手く声が出ない。
「……ねぇ」
誰も聞いてはくれない。
喧嘩は続く。
ユキを巡って争ってるつもりなのに、誰もユキを見ようとしない。
周囲の何とかしろという無言の圧力だけが強くなる。
――ふと、思った。
こんなにも誰も自分の話を聞いてくれないのに、何でこんな必死に周りの目を気にしながら生きてるのだろう。
ずっとユキは誰かに使われ続けていた。すり減らされ続けてた。
感情のゴミ捨て場。
寄りかかる為の添え木。
誰にも摘まれないように太陽も当たらない壁の中で育てられた花。
この世界に来てから自分は人間として扱われていた事はあっただろうか?
――また、お前は誰かの為の消耗品になるの?
馬鹿にしたような声が頭の中に響き渡る。
――そうやって一生誰かの顔を伺って生きていくんだね。
うるさい……
――お前は人間の姿をしたただの家畜だよ
うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!!うるさい!!!
――瞬間、頭の中で、何かが弾けた。
不意に。
すべての音が、遠のいた。
怒鳴り声も、罵声も、泣き声も。 喧嘩の衝突音も、ざわめきも。
まるで、水の中に沈んだみたいに。
世界が、急に遠くなる。
「……」
ユキは、瞬きをひとつした。
視界は、はっきりしている。 身体も、ちゃんと立っている。
なのに。
感情だけが、抜け落ちたようだった。
(……ああ)
心のどこかで、静かに思う。
(そうか)
誰も、私を見てないんだ。
みんな、自分の気持ちしか見ていない。 自分が苦しい。 自分が不安。 自分が好き。 自分が欲しい。
ユキは、そのための“理由”でしかなかった。
争うための。 縋るための。 満たすための。
道具。
(……期待するから、苦しいんだ)
そう、理解してしまった。
誰かが分かってくれる。 誰かが守ってくれる。 誰かが止めてくれる。
そんな都合のいい幻想に、しがみついていた自分が、馬鹿だった。
胸の奥が、すっと冷えていく。
怒りも。 悲しみも。 悔しさも。
全部、一緒に凍っていった。
ユキは、小さく息を吸った。
「……ねぇ」
声は、低かった。
さっきまでの震えも、掠れもない。
ただ、平坦な音。
誰もが、はっとしてユキを見る。
喧嘩は、ぴたりと止まった。
空気が、変わった。
誰の目にも、それは分かった。
「うるさいんだけど」
ぽつり。
感情の乗らない一言。
それだけで。
セーフティゾーンは、完全に静まり返った。
やっと……ユキのカタルシス始まります。




