愛と矛盾
セーフティゾーンの片隅。
ユキは、ひとりで座っていた。
周囲では、まだざわめきが残っている。
誰かが怒鳴っていて。
誰かが泣いていて。
誰かが、必死に取り繕っていて。
でも。
全部、遠い。
音だけが、膜越しに聞こえてくるみたいだった。
(……あー……)
視線を落とす。
床に映る、自分の影。
(……そっか……)
頭の中で、麻婆豆腐の言葉が、何度も再生される。
『どっちつかずでフラフラしてさ』
『はっきり言わないのが悪くね?』
消えない。
何度目を閉じても、消えてくれない。
(……うん……)
小さく、息を吐く。
(……正しいよね……)
否定できなかった。
ずっと、そうだった。
嫌なことを嫌と言えなくて。
辛くても笑って。
苦しくても「大丈夫」って言って。
誰かが離れそうになると、無理してでも繋ぎ止めて。
誰かが怒りそうになると、全部自分で飲み込んで。
(……私……)
指先が、震える。
(……何してたんだろ……)
思い返せば。
モユルに縛られても、何も言わなかった。
ナカジマが依存してきても、拒まなかった。
みっふぃが期待しても、裏切れなかった。
Laylaがすがってきても、突き放せなかった。
全部。
中途半端に、受け入れてきた。
(……だから……)
胸の奥が、じくじくと痛む。
(……こんなことになった……)
誰も悪くない。
……いや。
みんな悪い部分もある。
でも、一番悪いのは。
(……私だ……)
自分だった。
線を引かなかった。
距離を決めなかった。
曖昧にしてきた。
そのツケが、今、全部返ってきている。
(……はは……)
乾いた笑いが漏れた。
(……そりゃ……壊れるよね……)
これだけ感情を集めて。
これだけ期待を背負って。
これだけ依存されて。
耐えられるわけがない。
なのに。
今まで、平気なふりをしてきた。
(……私……)
喉の奥が、きゅっと詰まる。
(……優しいんじゃなくて……)
怖かっただけだ。
嫌われるのが。
離れられるのが。
独りになるのが。
だから、何も言わなかった。
(……最低だ……)
人を大事にしているつもりで。
実際は、自分を守っていただけ。
視界が、滲む。
(……泣くな……)
心の中で叱る。
(……泣いたら……もっと惨め……)
グッとくちびるを噛み締める。
――おかしい。
ナカジマは、少し離れた場所からユキを見ていて、そう思った。
いつもなら。
騒ぎの中心にいても、
面倒くさそうに笑って、
適当に流して、
どこか他人事みたいな顔をしているはずなのに。
今は違う。
壁際に座って、
俯いて、
動かない。
……動かなすぎる。
(……あれ?)
胸の奥に、小さな違和感が走る。
(……あんな顔、してたっけ……)
ユキの横顔。
伏せた睫毛。
強張った口元。
指先の、かすかな震え。
気づいた瞬間、ナカジマの呼吸が詰まった。
(……泣いて……ないよな?)
いや。
泣いてはいない。
でも。
――泣く寸前だ。
あれは。
自分が、何度も見てきた顔だ。
限界まで我慢して、
それでも誰にも頼れなくて、
崩れる直前の、人間の顔。
(……は?)
思考が、一瞬止まる。
(……いや……待て……)
これは。
想定外だ。
計画では。
モユルを追い詰めて。
周囲を混乱させて。
ユキを孤立させて。
その隙に、自分が入り込む。
――それだけだった。
ユキを「傷つける」つもりなんて。
……なかった。
(……なかった、よな?)
自分に問いかける。
でも、答えはすぐに出ない。
全チャを荒らしたのも。
麻婆豆腐を焚きつけたのも。
女同士をぶつけたのも。
全部。
自分だ。
(……俺……)
喉が、ひりつく。
(……やりすぎた……?)
いや。
違う。
必要だった。
そうしないと、奪えなかった。
そうしないと、近づけなかった。
……はずだった。
なのに。
目の前のユキは。
誰にも縋らず。
誰にも頼らず。
ただ、壊れそうに座っている。
(……こんなの……)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(……望んでない……)
こんな顔、見たかったわけじゃない。
苦しんでほしかったわけじゃない。
泣かせたかったわけじゃない。
ただ。
自分のほうを、向いてほしかっただけだ。
(……くそ……)
拳を、無意識に握る。
(……なんで……)
うまくいってるはずなのに。
計画通りなのに。
なのに。
気分は、最悪だった。
勝った気がしない。
嬉しくない。
むしろ。
――気持ち悪い。
胸の奥が、ざらざらする。
(……俺……最低じゃん……)
ユキを奪うために。
ユキを孤立させて。
ユキを追い込んで。
結果。
こんな顔をさせて。
(……それでも……)
視線を逸らせない。
目が離れない。
苦しそうな顔なのに。
放っておけない。
近づきたい。
触れたい。
守りたい。
なのに。
(……俺が壊してんだよな……)
全部、自分のせいだ。
分かっている。
分かっているのに。
足が、動かない。
声も、出ない。
怖い。
今、声をかけたら。
嫌われる気がして。
拒絶される気がして。
完全に、終わる気がして。
(……っ……)
歯を噛みしめる。
(……ふざけんな……)
こんな感情。
想定してなかった。
計算外だ。
計画にない。
でも。
確実に、芽生えていた。
――罪悪感と、執着。
両方。
同時に。
(……もう……)
ナカジマは、小さく呟く。
(……戻れねぇな……)
ここまで来たら。
もう。
途中でやめられない。
優しくする資格もない。
正義ぶる資格もない。
でも。
(……それでも……)
ユキを、手放す気はなかった。
どんなに嫌われても。
どんなに憎まれても。
自分が壊したなら。
自分が、最後まで背負う。
そう、決めてしまった。
その時。
ナカジマは、まだ知らなかった。
この感情が。
やがて――
人生ごと飲み込む呪いになることを。




