視線からの逃げ場
その日から、ユキは自室のカーテンを異様なほど丁寧に閉めるようになった。
ほんのわずかでも隙間が残っていると落ち着かない。指一本分の光が細く差し込むだけで、胸の奥がざわつく。理屈では何もいないと分かっているのに、その向こう側に誰かの目が貼りついているような錯覚が離れない。
光は視線で、隙間は侵入で、開いていることは無防備だ——そんな短絡的な連想を、脳が勝手に結びつけてしまう。
夜になると必ず確認する。
右。左。中央。
端を引き寄せ、布を重ね、縫い目を指でなぞる。
完全に閉じきるまで、やめない。
「……よし」
小さく呟いてからようやくベッドに横になるが、それでも眠りは浅い。
目を閉じると、高校時代の記憶が決まって浮かぶ。
放課後の教室。誰もいないはずの時間帯。
ロッカーの前で、ひとり背を丸めている影が映る。
最初は、何をしているのか分からなかった。
ただ、様子がおかしいと感じただけだった。
扉の隙間から、布の擦れる音がした。
「香坂 雪姫」私の体操服だ。
それをロッカーから、ゆっくりと引き出される。
その瞬間、時間が鈍くなる。
男はそれを胸元に寄せ、顔を埋めた。
深く、息を吸う。一度ではない。何度も。
恍惚とした顔で、目を閉じている。
ユキは、声を出せなかった。見てはいけないものを見てしまった。
そして、信じられなかったのは行為そのものより、相手だったからだ。
「ユキは俺の親友だからな」
そう、いつも表で言っていた。
周囲に向かって。自分に向かって。
男女の垣根なんてない、と笑っていた。
一番理解しているのは俺だ、と誇らしげに。
その言葉を、疑ったことはなかった。
だからこそ、その横顔を見た瞬間、何かが音を立てて崩れた。
親友。
その言葉を隠れ蓑にして、男はこんな欲望を隠していた。そして今まで気づかなかった自分が、ひどく間抜けに思えた。
信頼していた分だけ、距離が近かった分だけ、裏側の歪みがはっきり見える。
見られていた。
ずっと、友達の顔をして。味方のふりをして。
布を握る指が、衝動のままに強くなっている。
そこに、自分の知らない感情が絡みついている。気持ち悪い。
―――そして、男がゆっくりこちらを振り返った。
その日から、世界の輪郭が少し変わった。
「親友」という言葉が、まるで薄い膜のように思えた。
破ろうと思えば、いつでも裏が透ける。
男女の垣根なんて、最初から存在しなかったのかもしれない。ただ、気づいていなかっただけで。
布団の中で、ユキの指先がぎゅっと握られる。
カーテンの向こう側を想像するだけで、背筋が凍る。
見られること、それ自体が怖くなったのは、あの頃からだ。
布団の中で、ユキは小さく身を縮める。無意識に視線がカーテンへ向く。
閉まっている。きちんと。重なり合って1ミリの隙間もない。
……大丈夫。そう何度も心の中で繰り返す。
自分を安心させるというより、言葉で上書きし続けないと崩れてしまいそうだった。
翌日。
セーフティゾーンの端、壁際。人通りが少なく、背後を取られにくい位置に、ユキは自然と腰を下ろしていた。最近は無意識にそこを選んでしまう。視線が集まりにくく、逃げ道が確保できる場所。
「珍しいとこにいるじゃん」
顔を上げなくてもわかるくらいには、聞きなれた声。
気づいたときには、agjtmが隣に立っていた。
「……なに」
警戒心を隠さないまま返すと、agjtmはあからさまに肩をすくめる。
「いやー、最近さ。ユキ、妙に壁際ばっかだなーって」
軽い口調だが、言葉は急所を突いてくる。観察していなければ出てこない指摘だった。
ユキの眉がわずかに動く。極力感情は隠したまま返事をする。
「……別に」
「ふーん?」
気にならないと言いたげに振る舞っているが、視線だけは鋭い。
「カーテンもさ、最近やたら閉めてるよね」
カーテン。その言葉だけで心臓が跳ねる。
「夜、部屋の前通ると真っ暗なんだよ。前はもうちょい、ぼんやり明るかったのに」
まるで全て見透かしてるかのように、にやりと笑う。
(……見てたんだ)
背中に冷たいものが走る。同時に、嫌な思考が芽を出す。
——気づかなかった私が悪いんじゃないか。
そんなはずはない。責任の所在は明らかなのに、脳が勝手に自分へ引き寄せようとする。
まただ。ほんとこの癖、嫌い。ユキは心の中で吐き捨てる。
ナカジマは分かりやすい。視線も感情もそのまま表に出すから、物理的に避けることができた。
でも、agjtmは違う。
気づかせないまま入り込み、いつの間にか居座ろうとしてくる。一番嫌なタイプだ。
「……何が言いたい」
緊張で声が張り詰める。
ユキの明らかな警戒心を知ってか知らずかagjtmは首を傾げる。
「んー? たださ」
一歩、距離を詰める。その一歩が土足で部屋を踏み荒らしてきた、あの日を思い出す。
「なんか最近、怖がってる顔してるなーって。誰かに見られるの」
指先がわずかに震える。
ああ、こいつは全部わかって聞いてる。そう確信する。
「……関係ない」
かろうじて絞り出したのは、それだけだった。
今は早くこの場から、この男から遠ざかりたい。
「そ?」
agjtmは笑う。だが目は笑っていない。
「ま、いいけど。俺は逃げなくていいよ」
「見てるけど、傷つけないから」
その言葉の生々しさに、息が詰まる。
やり方は違う。態度も違う。でも、根っこは同じだ。
見てるだけと言いながら、自分の奥まで踏み入ろうとしてくる。触れてほしくない場所まで無遠慮に。
ユキは無意識に距離を取る。
「……近づくな」
agjtmの目が一瞬細まる。明確な拒絶なのに、それすらも子猫のじゃれあいくらいの認識なんだろう。
「あー。それ、ナカジマにも言ってたでしょ」
確信を含んだ声。ナカジマの名前を出される度に、背中がどうしようもなく粟立つ。
(……全部、わかってる)
わかってて、楽しんでる。
唇を噛む。少し鉄の味が広がる。
ここには「見ない男」がいないのではない。
――私を、放っておく男がいないのだ。
あの放課後と同じだ。
「親友」という言葉の裏で、
ロッカーの前にしゃがみ込んでいたあの背中。
見ていないふりをして、理解者の顔をして、
一番近い場所から、裏切ってきた。
違うのは顔だけだ。
布を握りしめた指の震えも、いま目の前にある“優しい視線”も。
行き着く先は同じだ。
――見られている。あのときと同じ目で。
今も。
形を変えて。




