崩れる音
セーフティゾーンの噴水広場は、いつの間にか人だかりに囲まれていた。円の中心に立たされているのはモユル。その少し後ろで、スマホを握ったまま動けずにいるユキの姿がある。
全チャのざわめきはまだ完全には収まっておらず、
《スマホ没収ってマジ?》
《さすがにそれはやばい》
といった軽口に混ざった疑問が、ゆっくりと空気を圧迫していた。
モユルはそれを正面から受け止める形になっていた。
「……何?」
低い声だった。怒鳴りはしない。けれど明らかに硬い。
みっふぃは肩をすくめ、あくまで軽い調子で言う。
「別に責めてないよ?」
その前置きが、いちばん刺さる。
「スマホ没収ってさ、恋人でもやらないやつだよ?」
周囲の空気が止まる。誰もが一瞬、モユルの反応を待った。
「……ユキのためだから」
ほとんど反射のような答えだった。迷いのない正論のつもりの声音。
みっふぃは笑わない。ただ、事実を置く。
「ユキ、自分で何も決められない子だったっけ?」
わずかに、モユルの表情が揺らいだ。
守っているのだ。自分が一番冷静で、周囲は感情で暴走している。だから自分が制御する。それが正しい。そう思っていた。その土台に、小さな亀裂が入る。
Laylaが前に出る。
「最近のユキ、笑ってないよ」
責める声ではない。だが確実に刺さる。
「あなたのせいでもあるでしょ」
モユルは即座に返す。
「じゃあ今は?」
Laylaの声が強くなる。
「今のユキ、息苦しそうだよ」
周囲がざわめく。群衆は盛り上がらない。ただ冷めた興味で見ている。
「あなたが一番感情的だよ?」
みっふぃの声は穏やかだった。その穏やかさが、逆に残酷だ。
「Laylaの時は“感情で暴走してる”って言ってたよね?」
モユルの呼吸がわずかに乱れる。
「今あなた、同じことしてるよ?」
沈黙が落ちる。
Laylaが畳みかける。
「私だけ悪者にしてさ。私がユキを傷つけたって言うけど、今あなたは?」
みっふぃは視線を外さず、さらに深く突き刺す。
「ユキはモユルの押し付け善意なんて、迷惑だと思ってるよ」
空気が凍った。
ユキは何も言っていない。なのに、その名前を使って刃が振り下ろされる。
「……は?」
モユルの声が低く沈む。
「勝手なこと言わないで」
「勝手?」
みっふぃは首を傾げる。
「だってユキ、何も言えてないじゃん」
その言葉に、モユルの視線が反射的にユキへ向く。
ユキは、ただ立っている。手の中には、さっき返されたばかりのスマホ。周囲の圧に押される形で差し出されたそれを、受け取るしかなかった。感謝も抗議も言えず、ただ握っている。
その沈黙が、まるで肯定のように見えてしまう。
群衆が冷めた声を落とす。
「またユキ絡みかよ」
「ほんと毎回ユキだな」
「ユキさっさと何とかしてよ」
「どうするの?ユキ」
怒鳴らない。ただ面倒くさそうに、責任だけを押しつける。
モユルの頬が赤くなる。
「あなた達みたいな軽い連中にユキ任せられるわけない」
吐き出した一言が、完全に火をつけた。
「軽い?」
Laylaが掴みかかる。
「あなたのそれが重いんだよ!」
服が引き寄せられ、足元がもつれる。
みっふぃは止めない。
「ほら、出た。本音」
モユルの声が荒れる。
「私は本気で――」
「本気ってなに?」
みっふぃの声は低い。
「ユキの人生、あなたの管理下なん?」
理性が軋む音が、聞こえそうだった。
取っ組み合いになる。髪が引かれ、罵声が飛ぶ。けれど群衆は熱くならない。距離を取り、眺める。
「やっぱこうなる」
「ほらユキ、どうすんの?」
「ユキしか止められないんだからちゃんとして」
少し離れた場所で、ナカジマは腕を組み、薄く笑っていた。完成を待つ観客のように。
その中心で、ユキは動けない。
自分を巡って争っているはずなのに、誰も自分を見ていない。みんな自分の感情をぶつけているだけだ。
ユキは誰も求めていないのに、ユキを使って争いが起こる。ユキ中心に広がる波紋。いつもそうだ。騒ぎの中心になるのは、いつも自分。
視線が重い。
“お前が止めろ”
無言の圧力が四方からくる。
息が浅くなる。視界が揺れる。
(私が止めなきゃ……)
一歩、前に出る。
「……ねぇ」
声が掠れる。誰も聞かない。
喧嘩は続く。
ユキを巡って争っているつもりなのに、誰もユキを見ようとしない。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
――こんなにも誰も自分の話を聞いてくれないのに、どうしてこんなに必死に周りの目を気にして生きているのだろう。
ずっとユキは誰かに使われ続けてきた。すり減らされ続けてきた。
感情のゴミ捨て場。寄りかかられるための添え木。誰にも摘まれないように、太陽も当たらない壁の内側で育てられた花。
この世界に来てから、自分は人間として扱われたことがあっただろうか。
――また、お前は誰かの為の消耗品になるの?
頭の奥で、声がする。
――そうやって一生、誰かの顔色を伺って生きていくんだね。
(うるさい)
――お前は人間の姿をしたただの家畜だよ。
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい。うるさい!!!
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
すべての音が遠のく。怒鳴り声も罵声も泣き声も、水の中に沈んだように遠ざかる。
ユキは、静かに瞬きをひとつした。
視界ははっきりしている。身体もちゃんと立っている。
なのに、感情だけが抜け落ちた。
(……ああ)
やっと、理解した。
誰も、自分を見ていない。みんな、自分の気持ちしか見ていない。自分が苦しい、自分が不安、自分が好き、自分が欲しい。そのための理由として、自分が使われているだけだ。
争うための道具。縋るための理由。満たすための材料。
(期待するから、苦しいんだ)
胸の奥が、すっと冷える。怒りも悲しみも悔しさも、まとめて凍っていく。
ユキは小さく息を吸った。
「ねぇ」
声は低い。震えも掠れもない。
喧嘩が、ぴたりと止まる。
全員が、やっとユキを見る。
やっと。
「うるさいんだけど」
ぽつりと落ちた一言。
感情の乗らない声音。
それだけで、セーフティゾーンは完全に静まり返った。




