爆ぜる
翌朝、セーフティゾーンの空気は昨日より少しだけ乾いていた。湿った不安が一晩で蒸発したわけではない。慣れが、薄い膜になって広間を覆っているだけだ。人は順応する。危険にも、地獄にも。
ナカジマはその膜を、舌で破りたかった。破って、空気を入れ替えて、正しい位置に戻したかった。そんな言い訳を、頭の中で何度も反芻していた。自分が何をしたいのかを、あらかじめ言葉にしておかないと、手が勝手に動く。もう自分の中の何かが制御盤から落ちている感覚があった。
昨夜、モユルに言われた。
近づかないで。個チャもしないで。パーティも組まないで。
それは“お願い”の皮を被った命令だった。拒否権はない。拒否した瞬間に処理が始まる。それでもナカジマは、無理だと答えた。自分の口が、勝手に。
ユキを見ないで生きるぐらいなら、敵にされる方がまだマシだ。そんな狂った天秤が、胸の奥で当然のように釣り合っていた。
彼は広間の隅に立ち、視線を泳がせた。ユキはいない。安全装置の説明板の前にもいない。ログアウト施設の奥にも。代わりに、女たちの声が増えている。笑い声。呼びかけ。軽い冗談。そこに混じる、飢えた匂い。
視界の端で、みっふぃが誰かに身を寄せて笑っている。大きな身振り。甘い声。あれは狩りの声だ。自分が一番無害だと示すための声。無害の仮面は、最も攻撃的な武器になる。
Laylaは、遠い。だが遠いほど目立つ。壁に張り付くように立ち、袖口をいじり、時折こちらを盗み見る。視線が合うとすぐに逸らすのに、逸らした先が必ず“ユキのいる方向”になる。まだユキはいないのに。
ナカジマは唇を噛んだ。胃の奥が熱い。
ユキは、こういうのに気づいているだろうか。気づいていて、やり過ごしているだろうか。やり過ごすために、優しくしているのだろうか。優しさを選んでるのだろうか。選んでるなら、責任がある。
――責任。
その言葉を握った瞬間、ナカジマは自分が“正義”に寄りかかっていることを自覚した。正義の方が楽だ。好きだと認めるより、嫌いだと断定する方が楽だ。楽だから、それを選ぶ。選んだ分だけ、人は残酷になれる。
背後から、軽い声が飛んできた。
「お、ナカジマさん。朝から真面目っすね」
戦力五位、麻婆豆腐だった。現実の顔は若い。幼い。目の奥がいつも光っている。勝ち負けの光だ。ゲームでしか存在できない男の光。
「……別に」
「昨日のアレ、見たっすよwww モユルさんと面談してたやつwww あれガチでこわくね?w」
面白がっている。怖いものを笑って処理するタイプだ。ナカジマは、ふっと気づいた。こいつは使える。使える人間ほど危険だが、危険はもう十分だ。ナカジマは危険を増やすことに躊躇がなくなっていた。
「麻婆豆腐。お前、昨日ユキに絡んでたよな」
「え?絡んでないっすよw ちょっと話しただけw あいつ反応おもろいっすね。静かに見えて意外とちゃんと返すしw」
「……その“ちょっと”が、もう危ない」
「は?なにが?」
麻婆豆腐が首を傾げる。その無邪気さに、ナカジマの中の苛立ちが燃えた。無邪気は、責任を免罪する。自分は免罪されたいのか、したいのか、分からない。
「ユキは今、狙われてる。女に」
ナカジマは言った。言葉を外に出した瞬間、現実になった。言葉は刃だ。抜いた刃は、戻らない。
「はあ?www なにそれwww モテてんの?w」
「笑うな。昨日の空気見ただろ。みっふぃ、Layla、モユル……」
「モユルさんは別格っしょwww」
麻婆豆腐は軽い。軽すぎる。だが軽いから、広げやすい。噂は軽さで増殖する。
「……だから厄介なんだよ。ユキは優しい。断れない。で、どっかで事故る」
「事故るってなにwww」
「“仮想ログアウト”がある。最大六時間。干渉不可。保護フィールド。だけどセーフティゾーンの外は、守られない」
ナカジマは言いながら、自分が昨夜モユルに言われた言葉を反芻していた。ユキは断れないのか。断れない人は、自分のことを言えるか。言える。なら、断れる。断れるのに、断らない。断らないなら、責任がある。責任があるなら、止める権利がある。
狂っている。だが狂いは、論理で装飾できる。
「つまりさあwww セーフティゾーン外で女に襲われたら終わりってこと?w」
麻婆豆腐が笑いながら言った。その笑いが、ナカジマの胸を刺した。
「終わる」
ナカジマは短く答えた。自分でも、その答えに驚いた。終わる。終わらせたくない。なのに口が言う。終わると言い切った方が、動きやすいからだ。
麻婆豆腐は肩をすくめた。
「じゃ、守ればいいじゃんw ナカジマさんがwww」
その言葉は冗談だった。だがナカジマの中で、冗談ではなく“提案”になった。守ればいい。守るには、周囲を遠ざける。遠ざけるには、空気を作る。空気を作るには、情報を投下する。
全チャだ。
ナカジマは、胸の中で冷たいものが落ちていくのを感じた。もう止まらない。止まらないなら、徹底した方がいい。中途半端は最悪の地獄を呼ぶ。最悪なら、最悪を制御する。
ナカジマはチャットウィンドウを開いた。全体チャット。文字入力欄。指が、軽い。
彼は打った。何度か消して、また打った。言葉を整える。正義の文章にする。誰が見ても納得する文章にする。攻撃に見えない文章にする。ユキを守る文章にする。ユキを孤立させる文章にする。
そして送信した。
【全チャ】ナカジマ:ちょっと共有。今この状況で、特定の人に過剰に近づくの危ない。冗談でも性的な絡みとか、外での行動誘導とか、事故る可能性ある。特にユキは目立つからターゲットになりやすい。みんな気をつけて。
送った瞬間、広間の空気が一段階変わった。視線が動く。ざわめきが漏れる。文字が“現実”に染みる速度は早い。
誰かが返した。
【全チャ】麻婆豆腐:www え、ユキ狙われてんの?w
ナカジマの喉が鳴った。やめろ、と思った。だがもう遅い。麻婆豆腐は可燃物を投げた。
【全チャ】みっふぃ:え?ユキがターゲット?ふふ、やっぱりね♡ でも大丈夫だよ、私が守るし♡
みっふぃが、軽く乗った。軽く乗って、マウントを取った。全チャで“私が守る”と言える女は強い。強い女は、弱いふりが上手い。
【全チャ】Layla:……ユキ……は、優しい……から……変な人に……傷つけられるの……いや……
Laylaが、震える言葉で追撃した。怖いのは、この女が嘘をついていないことだ。嘘をついていない依存は、祈りの顔をして刃を振るう。
【全チャ】シャンプー:くだらな。狙われてるとか言い方きも。そういうのって本人が迷惑でしょ
八位、シャンプーが噛みついた。自称サバサバ。反発の皮を被った恋心。だが彼女の矛先はナカジマではなく“空気”だった。空気に噛みつく人間は、実は一番空気に弱い。
【全チャ】アル中:おいおい朝から胃が痛い。落ち着け。ここで騒いでも解決しねえよ
酒カス、アル中が止めに入る。唯一の大人の声だ。だが大人の声は、燃えた場所には届きにくい。
そして、来た。
【全チャ】関ヶ原モユル:ナカジマさん。あなた、何をしてるの?
文字だけなのに、背筋が冷えた。モユルの言葉には“質問”の形をした“判決”がある。
ナカジマは喉の奥が乾くのを感じながら、打ち返した。
【全チャ】ナカジマ:共有だよ。危機管理。昨日も言ったけど、ユキの優しさは付け込まれやすい。事故ったら終わりだろ
送信した瞬間、ナカジマの内側で何かが快感として跳ねた。言ってしまった。言えた。正しさを言えた。正しさを言うと、心が軽くなる。軽くなる代わりに、周囲が死ぬ。
モユルの返信は速かった。
【全チャ】関ヶ原モユル:あなたはユキの“優しさ”を盾にして、ユキを追い詰めてる。本人の意思を無視しないで。
正論。
しかも正しい形で、皆の前で言われた。
ナカジマの胃がぐるりと捻れる。ここで折れれば処理される。折れたら消える。消えるなら、燃える。
ナカジマは、打った。
【全チャ】ナカジマ:追い詰めてるのは、群がってる側だろ。みっふぃもLaylaも、守るとか言ってる時点で距離おかしい。本人が断れないの分かってて言ってるんだろ?
送信。
送信した瞬間、広間のどこかで小さな息が詰まる音がした気がした。誰かの呼吸が止まる空気。空気が“喧嘩”になった。
【全チャ】みっふぃ:えぇ?私が距離おかしいってこと?ナカジマさんさ、ユキのこと好きなんじゃないの?だから邪魔したいの?
みっふぃが、針を刺してきた。問いの形をした暴露。こういう女は、燃えている場所に平気で油を注ぐ。油を注いで、自分だけ火傷しない位置に立つ。
【全チャ】Layla:……わたし……ユキ……すき……でも……守りたい……だめ……?
Laylaは直球で落ちた。落ちた瞬間、周りが笑う。笑いは残酷な秩序だ。秩序は、弱者を殺す。
【全チャ】麻婆豆腐:www Laylaガチで草www でもユキってそんなモテるんだwww
麻婆豆腐が草を生やす。空気がさらに崩れる。崩れた空気は、誰かを傷つける。それがユキである確率は高い。
そして、ナカジマが一番見たくない文字が来た。
【全チャ】ユキ:……皆さん、落ち着いて。大丈夫です。僕は誰とも外で二人きりで行動するつもりはないし、困ってるわけでもないので。
ユキが出てきた。
出てきてしまった。
丁寧で、柔らかい。誰も責めない。空気を鎮める言葉。いつもの“生き残りの癖”。その癖が、ナカジマの中で爆音に変換される。
違う。大丈夫じゃない。困ってる。困ってると言え。困ってると言えば、俺が助ける。俺だけが助ける。そう言いたい。そう言えない。言えないから、殴る。
ナカジマは、打った。
【全チャ】ナカジマ:そういうとこだよ。大丈夫って言うから付け込まれる。少しは線引け。自分を守れ
送信。
送信した瞬間、ナカジマは分かった。今のは“守り”ではない。命令だ。支配だ。自分が一番嫌っていたものになった。
ユキは、すぐには返さなかった。返さない沈黙が、広間を冷やした。見えない視線がユキに集まる。ユキが“どう返すか”を待っている。優等生が、どう丸めるかを待っている。待つ側は無責任だ。待たれる側だけが疲れる。
モユルが、割って入った。
【全チャ】関ヶ原モユル:ナカジマさん。あなたの言い方は暴力。ユキは“断れない”んじゃない。断る必要がないように振る舞ってるだけ。あなたがそれを壊してる
その文章は、正しい。正しいのに、ナカジマの胸を焼いた。ユキを理解しているのはモユルだ。自分ではない。自分はただのノイズだ。排除されるノイズだ。
排除されるなら、音を大きくする。消えるより燃える。
ナカジマは、最後の一撃を用意していた。最悪の一撃。使えば自分も終わる。でも終わりは、遅かれ早かれ来る。なら、火を選ぶ。
彼は全チャに貼り付けた。
【全チャ】ナカジマ:じゃあ言うけど、昨日“面談”したの誰?モユルだろ。特定の人がユキを管理しようとしてるのも同じくらい危ない。正しさで囲ってるだけだ
送信。
空気が凍った。
モユルが動く気配がした。文字より先に、足音が来る。セーフティゾーンの床は硬い。硬い床は音を逃さない。モユルは歩いてくるだけで、周囲に“処理開始”を告げる。
「ナカジマさん」
現実の声だった。
静かだ。
静かな声が、一番怖い。
ナカジマは立っていた。立ってしまった。逃げたいのに立つ。戦う姿勢を取れば、少しだけ存在できる気がする。存在するために、戦う。戦うために、嘘をつく。
「やりすぎたと思わない?」
モユルは、距離を詰めすぎない位置で止まった。近づけば殴れる。殴れば自分が“悪”になる。彼女は殴らせない。殴らせずに、相手の首を締める。
「思わない」
ナカジマは即答した。嘘だ。思っている。思っているけど、今ここで認めたら死ぬ。死ぬぐらいなら、燃える。
「ユキ、泣きそうだった」
モユルの言葉が、刃のように刺さった。
ナカジマの喉が震えた。
泣かせたくない。泣かせたくないのに、泣かせた。泣かせたなら、責任を取らなければならない。責任を取るには、謝る。謝ったら消える。消えたくない。だからまた燃える。
「……泣きそうにさせてるのは、群がってる奴らだろ」
「あなたも、その一人」
モユルの断定は、揺れない。揺れない断定は、相手の言葉を奪う。奪われた側は、暴れるしかなくなる。
「俺は、ユキを守ってる」
「守ってない。あなたは、自分の不安をユキに押し付けてる」
息が詰まった。
図星。
図星を言われると、人は反射で否定する。否定しても事実は消えない。消えない事実が、胸の中で腐っていく。
ナカジマは笑った。笑ったが、笑いは喉の奥でひきつった。
「モユルは何?ユキの保護者?正義の騎士?それとも……」
言いかけた瞬間、背後で誰かが息を呑んだ。
ユキだった。
ユキが、そこに立っていた。
表情は平坦だ。だが目が疲れている。疲れた目は、誰のせいでもない。環境のせいでもない。だが人は、誰かのせいにしたくなる。
ユキは、ナカジマを見た。視線が刺さる。刺さるのに、温度がない。温度がない視線が、ナカジマを狂わせる。怒ってくれた方が楽だ。拒絶してくれた方が楽だ。だがユキは、拒絶しない。拒絶しないから、永遠に求めてしまう。
「ナカジマさん」
ユキが言った。
声は穏やかだった。
その穏やかさが、ナカジマにとっては火種だった。
「僕は……守らなくて大丈夫です。あなたも、みんなも。僕は自分で決めます」
その言葉は正しい。正しいのに、ナカジマの中の何かを粉々にした。自分で決めます。つまり、ナカジマは必要ない。いらない。いらないと宣告されたように聞こえる。宣告されるぐらいなら、傷つける。傷つけて、存在を残す。最悪の選択だ。
ナカジマは、口を開いた。
そこで、最後の理性が囁いた。
やめろ。
ここで言えば終わる。
ここで言えば戻れない。
だが理性は、燃料ではない。燃料は憎しみと渇きだ。渇きが勝つ。
「自分で決めるならさ」
ナカジマは言った。声が震えた。震えを隠せなかった。
「俺のことも、ちゃんと決めてくれよ。曖昧に優しくすんな。そういうのが一番……」
言い切れなかった。
言い切ったら告白になる。
告白はまだ核爆弾として残す。
だからナカジマは、告白を憎しみに変換した。
「……一番、ムカつくんだよ」
言った瞬間、空気が死んだ。
みっふぃが口元を押さえた。Laylaが青ざめた。麻婆豆腐が「うわ」と小さく漏らした。アル中は、頭を抱えた。シャンプーだけが、目を逸らさなかった。逸らさない女は、痛みを見たい。
ユキは、瞬きだけした。
そして、短く言った。
「ごめんなさい」
謝った。
ナカジマが一番欲しかった言葉を、ユキは出してしまった。
その瞬間、ナカジマは悟った。
終わった。
この謝罪は救いではない。鎮火剤だ。鎮火剤は、炎を消して、灰だけを残す。
ナカジマの中で、何かが静かに壊れた。大きな音はしない。大きな音はすでに全チャで出した。残るのは、内側の崩壊だ。
モユルが言った。
「ユキ、謝らないで」
その声が、優しくて冷たい。優しくて冷たい声は、命令の完成形だ。
ユキは頷いた。頷いてしまった。頷くことで、ユキはモユルの秩序に寄る。寄ることで守られる。守られることで、ナカジマは排除される。
排除されるなら、最後に汚したい。そう思う自分が、心底嫌だった。嫌なのに、止められない。嫌いは燃料になる。
ナカジマは、笑った。今度は笑える形の笑いではない。喉の奥から漏れる、壊れた音だ。
「……いいよ。分かった」
それは降参の言葉に聞こえる。だが実際は違う。降参に見せかけた宣戦布告だ。ナカジマはもう、“表”で戦えない。なら、“裏”で戦う。正しさの外側で。
「俺、距離取る。約束する」
言いながら、ナカジマは決めた。
距離を取る。
物理的には。
心理的には、もっと絡め取る。
絡め取るために、噂を植える。
噂を植えるために、味方を作る。
味方を作るために、弱い女を抱える。
Laylaだ。
みっふぃだ。
シャンプーだ。
誰でもいい。燃料はまだある。燃えカスになるまで燃やす。
ユキは、何も言わなかった。
言わないことが、ナカジマをさらに殺した。
ナカジマは踵を返した。
背中に刺さる視線を感じながら、セーフティゾーンの端へ歩く。
安全な場所の端は、不思議と一番危ない。
落ちるには、ちょうどいい。
チャット欄には、まだ文字が流れていた。誰かが「ナカジマやば」と言い、誰かが「ユキ大丈夫?」と問い、誰かが「モユルさん頼もしい」と称え、誰かが「女怖」と呟いた。
そしてその全部が、ナカジマの中で一つの形に収束していく。
――ユキは、優しすぎる。
――だから壊す。
――壊れたところを、拾う。
――拾うのは、俺だ。
それは救いではない。
支配だ。
支配だと分かっているのに、ナカジマはその考えに縋ってしまった。縋った瞬間、指が火傷したように熱くなった。熱いのに離せない。
ナカジマは、セーフティゾーンの壁に額をつけた。冷たい石が、頭を冷やしてくれるはずだった。だが冷えたのは表面だけで、内側はむしろ燃え上がった。
「……やっと、始まった」
誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。
始まってしまった。
地獄の序章ではない。地獄の本編だ。
その頃、広間では、誰もが“ナカジマは距離を取るらしい”と解釈していた。
人は、言葉を信じる。
信じたいから信じる。
信じることで、自分が楽になるから。
だからこそ。
次に燃えるのは、もっと簡単だ。
次回は2/1(日)21:00更新予定です




