処理面談
セーフティゾーンの夜は、音が少ない。代わりに、気配がうるさい。誰かの視線、ため息、足音。そういう“言葉にならないもの”が、壁の内側で増幅する。
ナカジマは、ログアウト用の簡易ベッドに横たわりながら、目だけを開けていた。寝る気なんてない。寝たら負ける。何に負けるのかは分からない。けれど、寝た瞬間に何かを失う気がしていた。
ユキの顔が浮かぶ。困ったような笑み。否定しない声。丸く収める言葉。全部が嫌いで、全部が欲しい。そんな感情を持ってしまった時点で、終わっている。
ベッドの脇の空気が、わずかに変わった。音もなく近づく足取り。気配の角が尖っている。あれは、慣れている人間の移動だ。慣れている人間は、他人の生活圏に入ることに躊躇がない。
「起きてる?」
モユルの声だった。静かで、淡い。淡いのに、拒否を許さない温度がある。声の色が“正しい”のだ。正しい声は、反論する側を悪く見せる。だから人は反論できなくなる。
ナカジマは上体を起こした。わざとらしくならない程度に、だるそうに。眠かった、を演じる。眠かったなら、判断を誤ったことにできる。誤ったなら、悪意を薄められる。
「……起きてるよ。話って、今?」
「今がいい。時間、取れる?」
取れる?と聞きながら、取らせる気しかない言い方。ナカジマは、喉の奥で小さく舌打ちしたくなった。もちろんしない。いい人の檻は、すでに鍵が回っている。
「……うん」
モユルはベッドの縁から少し離れた位置に立った。近すぎない距離。なのに、逃げ道を塞ぐ立ち位置。彼女は、そういう配置が上手い。戦力一位は、戦う前に勝っている。
「今日は、怖かった」
第一声がそれだった。責める言葉ではなく、“感情”で始める。感情で始めると、相手は理屈で反論しづらい。怖かった、と言われたら、じゃあ怖がるなと言える人間はいない。
「……ごめん」
ナカジマは反射で謝った。謝った瞬間に、負けた。謝ると、相手が主導権を持つ。相手が主導権を持つと、話は“処理”になる。モユルの望む形だ。
モユルは小さく首を振った。
「謝ってほしいんじゃない。確認したいの。ナカジマさん、ユキのこと、どう思ってる?」
直球。
だが直球に見せかけた誘導だ。どう思ってる、と聞けば、人は誤魔化す。誤魔化したら、矛盾が出る。矛盾が出たら、“本音を引きずり出す”口実ができる。
ナカジマは笑ってみせた。
「どうって……普通に、すごいと思うよ。強いし、優しいし」
「優しい」
モユルが、その一語だけを拾った。拾われた瞬間、胃が沈む。
「その“優しい”が、嫌いなんだよね?」
ナカジマの背中に汗が浮いた。さっきの自爆台詞。あれがもう、モユルの手のひらの上に並べられている。
「……嫌いって言ったのは、言い方が悪かった。ムカついたんだよ。あいつ、守られるのが当たり前みたいに見えたから」
「守られるのが当たり前」
モユルの声音が、ほんの少しだけ低くなった。怒っているわけではない。むしろ、冷静になる合図だ。冷静になったモユルは危ない。感情で殴らない。秩序で首を絞める。
「ユキは、守られるために“当たり前”を作ってると思う?」
「……作ってるっていうか」
「じゃあ、周りが勝手に作ってる?」
どっちを選んでも、ユキは悪者にならない。モユルの質問はそうできている。ユキを悪者にしないまま、ナカジマを悪者にする構造。
ナカジマは、息を吸った。ここで“本音”を言えば終わる。でも言わないと、ずっと終わらない。
「……俺、ああいうの嫌いなんだ。優しくして、誰にでも同じ顔して、結局、誰も責任取らない」
「責任?」
「ユキに寄ってく女、見た?あれ、絶対エスカレートする。ユキが断れないの分かってるから。断らないのも、優しさって名前で放置してるだけだろ」
言いながら、自分の言葉に血の味がした。これ以上言えば、自分の醜さが全部露出する。なのに止まらない。止めると、負ける。勝ちたいわけじゃない。負けて終わりたいだけだ。
モユルは、少しだけ目を細めた。
「ねえ、ナカジマさん。ユキは“断れない”の?」
「……断れないだろ」
「断れない人は、今日みたいな場で『現実の僕はあんまり喋らない』って言えるかな」
ナカジマの言葉が詰まった。
確かに、ユキは咄嗟に返していた。完全に黙るわけじゃない。拒否はしないが、受け入れもしない。柔らかくかわす。あれは、技術だ。人を傷つけずに距離を取る技術。
つまり、ユキは弱いだけではない。
その事実が、ナカジマをさらに苛立たせた。弱くないなら、なぜ俺を見ない。弱くないなら、なぜ頼らない。弱くないなら、なぜ俺の“焦げた感情”を救わない。
救ってほしい。
それを認めた瞬間、終わる。
「……でも、結局守られてるじゃん」
「守ってるのは、誰?」
モユルの視線が、真正面から刺さった。
“私が守ってる”。
そう言わせたい視線。
言わせたら、そこからは所有の話になる。モユルの土俵。ナカジマの負け。
ナカジマは、わざと曖昧にした。
「……みんな」
モユルは、静かに笑った。笑顔じゃない。ただ口角が上がっただけ。分類が終わった顔。
「みんな、ね。じゃあさ、今日。あなたは何を守った?」
ナカジマの喉が鳴った。
守った?
守ってない。
刺した。
刺して、崩して、隙間を作ろうとした。
そんなことは、言えるはずがない。
「……俺は」
「ユキを守ろうとした?」
「……そういうつもりだった」
嘘だ。完全な嘘ではないのが、また最悪だった。ユキを守りたい気持ちはある。だが守り方が歪んでいる。守るふりをして孤立させたい。孤立したユキを、自分だけが救いたい。救って、感謝されたい。認めてもらえる存在になりたい。
モユルは、その歪みを見抜く速度が早い。
「あなたの“守りたい”は、相手が弱ってる前提だよね」
ナカジマの顔が熱くなった。
言われたくないことを、正確に言う。
そしてそれを、責める口調じゃなく、確認の口調で言う。確認されると、反論できない。反論したら、現実逃避に見える。
「違う」
ナカジマは言った。声がかすれた。
違わない。
違うと言わないと、崩れる。
モユルは一歩、近づいた。距離が詰まる。空気が薄くなる。
「ナカジマさん。私は、ユキを守りたい。あなたが邪魔なら、排除する。それだけ」
淡々とした宣言。
怒りも泣きもない。
つまり、感情の勝負ではない。手続きだ。
手続きで殺されるのが、一番救いがない。
「……排除って何」
「簡単だよ。みんなに“危ない人”だと思われてもらう。あなたが今日、手伝ってくれた」
ナカジマの腹が冷えた。
怖いのは、この女が嘘をついていないことだ。
正しいと思っている。
正しいと思っている人間は、残酷になれる。
ナカジマは、笑ってしまった。乾いた笑い。自分を守るための笑い。
「じゃあ、俺は悪者でいいんだ」
「悪者って言ってない。私は事実を並べるだけ。あなたが言ったこと、やったこと、全部」
モユルは、ほんの少し首を傾げた。
「ねえ。ユキのこと、好き?」
静かに、とどめを刺しにきた。
好き、と言えば終わる。
嫌い、と言えば嘘になる。
どっちでも詰みだ。
ナカジマの中で、何かが切れた。切れたのは理性じゃない。理性は最初から薄い。切れたのは“いい人の檻”の蝶番だ。
「……好きじゃない」
反射で言った。
嘘だ。
嘘だと分かっているから、続けてしまう。
「好きじゃない。あいつみたいな奴、嫌いなんだよ。人の話聞いて、分かった顔して、優しい言葉で全部丸めて、結局自分は傷つかない」
自分で言って、自分が一番傷ついていることに気づく。
傷つきたくないから、先に殴る。
殴ったら、返ってくる。
返ってきたら、泣けない。
泣けないから、また殴る。
モユルは、静かに息を吐いた。
「うん。分かった」
怖い返事だった。
理解ではなく、処理完了の返事。
「じゃあ、お願い。ユキに近づかないで。今後、個チャもしないで。パーティも組まないで。あなたが“距離を取る”なら、私はあなたを敵だと思わない」
条件提示。
取引。
ここで従えば、生き残れる。
だが従った瞬間、ナカジマは“消える”。存在しないのと同じになる。
消えたくない。
消えたくないのに、消えたい。
矛盾が胸を焼いた。
「……それは、無理だ」
口から出てしまった。
言った瞬間、自分でも分かった。
これが暴走の始まりだ、と。
モユルの目が、ほんの少しだけ細くなる。怒りではない。最終確認。
「無理なんだ」
「……俺だって、ここで生きるんだよ。勝手に決めんな」
「勝手に決めてるのは、あなたの感情だよ」
正論。
正論で殴られると、人は自分が悪いと分かってしまう。
分かってしまうから、さらに暴れる。
ナカジマは、立ち上がった。勢いをつけすぎて、ベッドが軋んだ。セーフティゾーンの静けさに、その音が不自然に大きく響く。
「……モユルさ。ユキの何なんだよ」
言ってしまった。
言ってはいけない問い。
所有の問い。
所有の問いを出した瞬間、モユルは勝てる。
案の定、モユルは微笑んだ。温度のない微笑。
「私は、ユキの“味方”」
「それだけ?」
「それだけで足りる。あなたみたいに、憎しみで近づかないから」
ナカジマの胸が、ひゅっと縮んだ。
憎しみで近づく。
そうだ。
ナカジマは、憎しみを理由にして、近づくことを許している。
好きだと認めたら、ただの依存になる。
依存は嫌いだ。
だから憎しみにしている。
モユルは、最後に一言だけ落とした。
「ねえ、ナカジマさん。ユキは“優しい”んじゃない。あれは、生き残るための癖。あなたの言葉は、その癖を強化するだけ。だから、私はあなたを止める」
止める。
止めるのは、守るの裏返し。
守るは、支配の別名。
ナカジマは、その場でうまく呼吸ができなくなった。
自分が何をしたいのか分からない。
ただ、ユキを見たい。ユキに見られたい。
その欲望が、喉の奥で黒く膨らんでいく。
「……分かった。俺、距離取る」
口が勝手に言った。
逃げの言葉。
しかしその言葉の奥で、別の声が笑っている。
距離を取る?
取るわけがない。
距離を取って、終わるくらいなら。
終わらせるなら、もっと派手に。
モユルは頷いた。これで手続きが終わった、という顔。ナカジマの返事を信じたのではない。信じる必要がないから頷いた。違反した瞬間に、処理できるから。
「ありがとう。じゃあ、今日は終わり。眠って」
そう言って、モユルは踵を返した。
背中が静かだ。
背中が静かすぎて、怖い。
ナカジマは、モユルの背中を見送りながら、唇の裏を噛んだ。血の味がした。
血の味は、現実味をくれる。
現実味は、決心をくれる。
この時点で、もうナカジマの中では決まっていた。
距離を取るふりをする。
そして、もっと悪い方法で近づく。
“いい人の檻”は壊れた。
壊れた檻の破片は、武器になる。
遠くでユキの笑い声がした気がした。実際には、誰の声でもなかったかもしれない。けれどナカジマの脳は、その音をユキに結びつけた。
結びつけた瞬間、胃の底から熱が湧いた。嫉妬。憎しみ。焦り。渇き。
渇きが、口を開かせる。
「……孤立させる」
誰にも聞こえない声で、ナカジマは言った。
言った瞬間、少しだけ落ち着いた。
落ち着いたことが、また怖かった。
そして夜が明ける前、ナカジマは静かに動き始めた。
誰にも見つからないように。
正しさの外側で。
優しさの皮を被ったまま。
次は、暴走だ。
暴走は派手に見える。だが本当に恐ろしいのは、暴走の前に仕込む小さな一手だ。
ナカジマはそれを、もう打っていた。
次回は31(土)21:00更新予定です




