君に俺の毒を飲ませたい
セーフティゾーンの空気は、不思議なほど澄んでいた。火種を撒かれたはずなのに、煤は残らない。誰かの悪意が焦げた匂いだけが、薄く漂っている。麻婆豆腐が全チャから姿を消したあと、場はすぐに「何も起きていない」顔に戻った。戻ったのではない。戻されたのだ。
秩序の手触りは冷たい。触れれば触れるほど、指先の感覚が鈍る。鈍った指先で掴むものは、いつも同じだ。沈黙、空気、視線。誰が何を言ったかではない。誰が何を“言わなかったか”が残る。
ナカジマは、セーフティゾーンの端に立ったまま、呼吸を浅くしていた。胸の奥がずっと、薄い針で刺され続けている。痛いのに、声にできない。声にした瞬間、悪者になる。悪者になった瞬間、終わる。終わるのが怖いのに、終わらせたくて仕方がない。
少し前まで、彼は自分を「理性的な男」だと思っていた。女同士の争いに巻き込まれない。余計なことは言わない。空気を読む。立ち回れる。そうやって、“面倒の外側”に立つのが上手いと思っていた。だが今、面倒の中心にいるのは誰だ。ユキだ。中心にいる者は、何もしなくても人を動かす。守られる。囲われる。正しさを集める。無自覚に。
そしてモユルは、その正しさの集合体のように、ユキの近くに立っていた。立っているだけで、場が締まる。場が締まると、勝手に線が引かれる。線の内側が「守る側」、外側が「邪魔する側」。誰もそう言っていないのに、空気がそう決める。決めた空気を管理するのが、モユルだ。
ナカジマの個チャには、まだモユルの言葉が残っていた。
『ありがとう。いい人でいてね』
それは祝福の形をした檻だった。いい人でいる限り、反撃は許されない。怒りは幼稚に見える。疑いは嫉妬に見える。苦しみは自己責任になる。いい人はいつだって、“分かってくれる側”でいなければならない。
なのにナカジマは、分かってほしかった。ユキに。たった一人に。分かってほしかったという願いは、気づいた瞬間に醜い。相手に負担を押し付けることになる。分かってほしいは、依存だ。依存は嫌いだった。依存してくる人間が嫌いだった。だからこそユキみたいな人間が嫌いだった。誰にでも優しくして、誰にでも居場所を与えて、結果として依存を生む。本人は善意だと思っている。善意で人を縛るのが、一番たちが悪い。
ユキの周りは、今日も密度が濃かった。みっふぃが明るい声で話し、Laylaが近くをうろつき、アル中が苦笑しながら場をなだめている。シャンプーは遠巻きに見ているだけなのに、視線だけはやたら刺さる。誰もがユキを中心に回っている。回り続けることで、中心の存在が確かなものになっていく。
ナカジマだけが、中心に近づけない。近づけば「余計なこと」になる。近づかなければ消える。消えるのは嫌だ。嫌なのに、消えたい。矛盾が喉に詰まって、言葉にならない。
その日、ナカジマは初めて“ルール”を確認した。仮想ログアウトはセーフティゾーン限定で最大六時間。干渉不可。保護フィールド展開。時間超過で強制復帰。つまり、ここで眠るなら安全だ。安全すぎる。安全があると、人は油断する。油断すると、距離が近くなる。距離が近くなると、所有が始まる。
ナカジマは、モユルの言葉を思い出した。
『この世界、軽口で済まないことが増えてる』
軽口で済まない。そう。だからこそ、軽口に偽装すればいい。真面目に言えば正しさの戦争になる。正しさの戦争はモユルが勝つ。なら、真面目に見えない形で刺す。刺しても笑える形で。冗談で。冗談なら、空気は咎めない。咎めても、それは“冗談が通じない人”として扱われる。冗談が通じない人は孤立する。孤立するのはモユルではなく、ユキだ。
最低の発想だった。最低なのに、ナカジマの胸の奥は少しだけ温かくなった。自分が何かを握った気がした。握ったのが刃だと分かっているのに、指を離せない。
ナカジマは動いた。まずは、個チャで小さく火を起こす。相手は“油の多い男”がいい。agjtm。二位。出会い厨。モユルに写メを送るような男。正義感より欲望が先に立つ。欲望が先に立つ男は、他人の関係を“競争”として理解する。競争の話題を与えれば、勝手に走る。
【ナカジマ→agjtm】
今日の全チャ、見た?
あれさ、ユキって「困る」って言えるんだね。意外だった。
すぐに返事が来る。
【agjtm】
見た見たw
ユキ、やっぱモテる側の余裕あんだよw
ナカジマの口角が、ほんの少しだけ上がった。来た。ここだ。余裕、モテる側、羨望、嫌味。その辺の油はよく燃える。
【ナカジマ→agjtm】
余裕っていうかさ、あれ、誰かに守られてるから言える系じゃない?
もしモユルがいない場で同じこと言われたら、ユキはどうするんだろって思った。
“もし”。“どうするんだろ”。ただの疑問。心配の形。善意の匂い。毒を甘くする言い方。agjtmは、案の定、面白がった。
【agjtm】
え、試す?w
いや冗談冗談w
でもユキって断れないんだよな。あそこがいいんだけどw
断れない。
その言葉で、ナカジマの胸がきしんだ。断れないのがいい。そう言う人間がいる。ユキは、そういう人間の“好み”の対象になる。自分が嫌いなタイプの人間に、ユキが狙われている。
守られたいはずなのに、守られることで狙われる。矛盾。ユキの優しさは、矛盾を集める磁石だ。
ナカジマは、息を吐いた。次は、もう少し直接的な火種が必要だ。けれど直接は駄目だ。直接はモユルが潰す。だから、“間接的な事故”を作る。事故は誰のせいにもできない。事故は空気を濁す。濁った空気は人を疑心暗鬼にする。疑心暗鬼は距離を生む。距離は孤立を生む。
狙いはセーフティゾーンの外。デイリーの狩場。安全の外側。安全の外側で何かが起きると、戻ってきた時に感情が剥き出しになる。剥き出しの感情は、管理が難しい。管理が難しい瞬間に、秩序にひびが入る。
ナカジマは、ユキが次のデイリーに出るタイミングを見計らった。モユルがパーティを組む。みっふぃが乱入を狙う。Laylaが視線を落とせない。アル中が胃を押さえる。いつもの流れ。そこへ、agjtmが「俺も行くわ」と入り込む。入れてやる。入れればいい。入り込んだ男は、必ず何かを言う。言えば空気が揺れる。
「ユキ、次、デイリー行く?」
モユルが穏やかに問いかける。ユキはいつも通り頷いた。
「はい。いつも通りで大丈夫です」
いつも通り。
その言葉が、ナカジマには残酷だった。いつも通り、が続く限り、ナカジマは不要になる。不要になったものは消える。消えるのが怖い。怖いのに、消したい。自分を。
ナカジマは、ふと、ユキの顔を見た。美形だ。自分の中に湧く苛立ちを正当化するには十分なほど美形だ。だが、もっと厄介なのは、ユキの表情だ。柔らかい。人を落ち着かせる。人の怒りを鈍らせる。怒れなくなる。怒れないと、依存が始まる。怒れないと、憎めない。憎めないと、諦められない。
ナカジマは、そこで初めて、自分が“ユキに弱い”ことを自覚した。弱いと分かった瞬間、余計に嫌いになった。弱い自分が嫌いだ。弱くなる原因が嫌いだ。原因であるユキが嫌いだ。嫌いなのに、視線を外せない。外せないのが、いちばん惨めだ。
デイリーに出る直前、ナカジマはagjtmに一言だけ送った。
【ナカジマ→agjtm】
ユキ、たぶん断れないから、あんまり詰めないでね。
空気悪くなるとモユルが怒るよ。
“モユルが怒るよ”。
ナカジマは、自分で書いたその文に、ぞっとした。脅しだ。モユルの権威を借りた脅し。自分が嫌っているはずの支配を、今、自分が使っている。
それでも送った。送ってしまった。戻せない。
そして狩場。
パーティは、予想通りの構図になった。ユキとモユルが軸。みっふぃが甘い声で絡み、Laylaが距離を詰められずに焦れ、アル中が乾いた笑いで場を繋ぐ。そこへagjtmが入って、空気に油を垂らす。
「ユキ、現実でもその感じなん?」
唐突にagjtmが言った。軽口の皮を被った下品な質問。
空気が一瞬止まる。ナカジマの心臓が跳ねた。これだ。これが欲しかった。揺れ。ひび。事故の匂い。
ユキは、困ったように笑った。
「分からないです。現実の僕は、あんまり喋らないので」
かわした。
いつもの優しさで、角を丸めてしまった。丸めると、相手は調子に乗る。調子に乗った相手は、さらに踏み込む。踏み込めば、誰かが怒る。怒るのはモユルだ。
ナカジマは、喉が渇いた。これ以上踏み込むな、と言いたい。だが言えば“いい人”になる。いい人は嫌いだ。嫌いなのに、止めたくなる。
agjtmは笑った。
「喋らないってか、女みたいな顔してるもんな。そりゃモテるわ」
その瞬間、ユキの表情がほんの少しだけ硬くなった。
モユルの視線が、温度を失った。
みっふぃの笑顔が、薄くなった。
Laylaが息を呑んだ。
アル中が、心底嫌そうに眉をひそめた。
これだ。
これが“軽口で済まない”瞬間。
ナカジマは、背中を汗が伝うのを感じた。成功だと思った。秩序が揺れる。ユキが傷つく。ユキが孤立する。逃げ場を求める。そこに俺が。
そう思った。
その思いが、次の瞬間、全部ひっくり返る。
モユルが言った。声は低くも高くもない。なのに、刃のように通る声だった。
「agjtmさん、それ以上はやめて。今すぐ」
命令。
しかし誰も逆らえない命令。
逆らえば、悪者になる。
悪者になれば、孤立する。
孤立するのはagjtmだ。ユキではない。
ユキが何か言いかけた。たぶん「大丈夫です」と言うつもりだった。だがモユルはそれすら許さないように、ユキの前に半歩出た。
「ユキ、返事しなくていい。気にしないで」
その一言で、ユキは“守られる側”に確定した。
確定した瞬間、場の全員が同じ方向に揃う。守る。排除する。整える。
事故は事故のまま終わる。
モユルの秩序は揺れない。
ナカジマは、そこで理解した。
自分が欲しかったのは“ひび”ではなかった。
自分が欲しかったのは、ユキの“視線”だった。
ユキが自分を見る瞬間。
助けを求める瞬間。
信頼を向ける瞬間。
それを、モユルに全部奪われている。
奪われている。
その言葉に、胸の奥が煮えた。
奪われたと思う時点で、もう所有だ。
所有したいと思っている時点で、自分も同類だ。
モユルと同類。
みっふぃと同類。
Laylaと同類。
その事実が、吐き気を呼んだ。
ナカジマは、耐えきれずに口を開いた。
これが、自爆の始まりだった。
「……でもさ」
全員の視線がナカジマに集まる。
言ってはいけない。分かっている。
それでも言った。
「ユキも、少しは言い返した方がいいと思うよ。困るって言って終わりじゃ、周りが勝手に守って、余計に面倒になるだろ」
静寂。
空気が、凍った。
ユキが目を丸くした。
アル中が「おい」と小さく漏らした。
みっふぃの笑みが、完全に消えた。
Laylaが不安げに唇を噛んだ。
そしてモユルは、ナカジマを見た。
その目は、怒りではなかった。
失望でもない。
分類の目だった。
危険物を見分ける目。
処理対象を選別する目。
「ナカジマさん」
名前を呼ばれただけで、胃が沈む。
ナカジマは、引けなくなっていた。引いたら負ける。負けるくらいなら、嫌われた方がマシ。嫌われれば感情が届く。届かないよりマシ。
そう思い込んだ。思い込むしかなかった。
「あなた、優しいふりして刺すの、上手いね」
モユルの言葉は、刃だった。
誰にも聞こえない音で、ナカジマの喉を切った。
「違う」
ナカジマは反射で言った。
違わない。
優しいふりをして刺した。
自分で分かっている。
分かっているのに否定した。
否定した時点で、みっともない。
ユキが、弱い声で言った。
「ナカジマさん……僕、そんなつもりじゃ……」
その言葉は、助けではなかった。
許しだった。
許しは、いちばん残酷だ。
許されたら、怒れない。
怒れないまま、自分の醜さだけが残る。
ナカジマは笑った。乾いた笑い。自分を壊すための笑い。
「だよね。ユキはそう言うよね。そういうとこが嫌いなんだよ」
言ってしまった。
言った瞬間、全てが終わった。
終わったのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
軽くなったことが、さらに自分を嫌いにさせた。
モユルは、何も言わなかった。
ただ、ユキの肩にそっと手を置いた。
その仕草で十分だった。
“守る”の合図。
“排除する”の合図。
“処理する”の合図。
アル中が、ぎこちなく場を繋ごうとした。
「……まあ、今日は解散でいいだろ。デイリー終わったし」
誰も逆らわない。
逆らえない。
ナカジマの言葉は、事故ではない。意図がある。意図がある言葉は、空気を汚す。汚れた空気の中心にいる者は嫌われる。嫌われる者は孤立する。
孤立するのはユキではない。
ナカジマだ。
セーフティゾーンに戻る道すがら、ナカジマは背中に視線を感じた。刺すような視線ではない。むしろ、避けるような視線。避けられる視線は痛い。刺さるより痛い。刺さるなら「敵」として存在できる。避けられるなら、存在しないのと同じだ。
そして最後に、モユルから個チャが届いた。
【関ヶ原モユル→ナカジマ】
話、ちゃんとしよう。今夜、セーフティで。
あなた、ユキに近づかないで。
丁寧な文。
しかし命令。
命令なのに、理由が書いていない。
理由を書かない命令は、覆せない。
覆せない命令は、世界のルールになる。
ナカジマは、返事を打てなかった。
指が震える。
息が浅い。
胸が痛い。
自分で撒いた重油が、自分の足元に溜まっていた。
火を点けたのは自分だ。
燃えるのも自分だ。
ユキは、まだ優しいままだった。
その優しさが、ナカジマを確実に殺していく。
そしてモユルは、静かに準備を始めていた。
騒がずに。怒鳴らずに。泣かずに。
ただ、秩序の名の下に。
この夜、ナカジマは初めて「ログアウトしたい」と思った。
けれどこの世界には、現実への逃げ道はない。
あるのは、六時間の仮眠だけ。
目を閉じても、現実には戻れない。
戻れないなら、終わらせるしかない。
何を。自分を。関係を。立ち位置を。
ナカジマは、セーフティゾーンの闇の端で、笑ってしまった。
笑うしかなかった。
いい人の檻は、内側からしか閉まらない。
そして彼は、自分の手で鍵を回してしまったのだ。




