依存という名の爆弾
セーフティゾーンの空気は、いつからだろう、明確に甘ったるくなった。
人が多いから酸素が薄いとか、鍋の湯気みたいに熱がこもるとか、そういう物理の話ではない。視線と、噂と、遠慮と、期待が絡み合って、じっとり張りつく。誰かが息をするたびに、その空気の粘度が少し増していくようだった。
ユキは、その中心にいた。本人が望んだわけではない。望むはずがない。
いつも通り、壁際に寄りかかり、状況を眺め、必要以上に喋らない。誰かが困っていれば手を差し伸べる。誰かが泣いていれば、言葉を選んで慰める。たったそれだけの積み重ねが、いつの間にか“ユキは優しい”“ユキは特別”という物語に変換され、勝手に共有され、増殖していた。
自己紹介の一巡が終わった翌日。広間はざわめきと沈黙を行ったり来たりしていた。
異世界に飛ばされたばかりの人間は、騒いだ方が正常で、黙る方が異常だ。なのに、ここにいる連中は黙り方だけが妙に上手かった。彼らはチャットで生きてきた。言葉の使い方と、言葉を使わない嫌がらせのやり方を知っている。
ユキが一息つこうとした、その瞬間だった。
「ユキ。今日、デイリー行ける?」
モユルの声は淡々としていた。感情を乗せない声は、時に感情よりも支配力を持つ。彼女はサーバー1位。強さだけでなく、空気の掌握が桁違いだった。近づく距離、声の出し方、言葉の選び方。その全部が“当たり前の隣”を取る手順になっている。
「あ……はい、大丈夫です」
そこで終わるなら、まだ平和だった。終わらない。終わらせない人間がいる。
「……待って」
細い声が割り込む。Laylaだった。
ゴスロリめいた装いが目立つのに、本人は目立つのが怖い顔をしている。矛盾を抱えた人間の目は、他人の一言で簡単に壊れる。彼女はユキの袖を、爪先でつまむみたいに掴んだ。触れること自体が“約束”になる、とでも信じている触れ方だった。
「昨日……一緒に行こうって言った……よね?」
ユキの呼吸がわずかに止まる。言ったのかもしれない。言ってないのかもしれない。曖昧に頷いたのかもしれない。ユキの優しさは、その境界を溶かす。溶けた境界の上に、相手は勝手に家を建てる。
「えっと……」
言葉が詰まった瞬間、モユルが視線をLaylaに移した。氷の目だった。怒っているわけではないのに、逃げ道が消える目。
「邪魔しないで」
低く、短い。宣言。命令。
「……邪魔……?」
Laylaが繰り返す。単語が、彼女の中で意味を増殖させる。いらない、消えろ、出ていけ。昔、誰かに言われた言葉が、勝手に上書きされていく。
「ユキは私と組む。今日も。これまで通り」
“これまで通り”。それは事実の皮をかぶった刃だった。頻度が正義になってしまう世界で、頻度を握る者が勝つ。
「……でも、私……」
Laylaはユキを見る。完全に“選べ”の目だ。救え、証明しろ、特別だと言え。選べない人間に一番やってはいけない圧を、彼女は無自覚に押しつける。
ユキは、いつもの癖を出した。誰も傷つけない答えを探す癖。波風を立てない結論を探す癖。結果として、全員が傷つく答えにしかならないのに。
「……三人で、っていうのは……」
その一言で、空気が音を立てて沈んだ。
モユルの表情が変わらないまま、温度だけが下がる。Laylaの顔色が薄くなる。周囲は“来た”という気配でざわめき、同時に黙る。遠くでアル中が、頭を抱えるような仕草をした。みっふぃは口元だけで笑い、ナカジマは柔らかい微笑みのまま観察者の位置を取る。誰も助けない。助けたら、自分が次の標的になるから。
「……ねえ、ユキくん」
Laylaの声が甘くなった。甘いのに、怖い。依存が甘く聞こえるのは、相手の罪悪感を釣るためだ。
「私……怖かったの。ここも、みんなも。ユキくんだけが普通だった」
普通。つまり、逃げ場。つまり、檻。
「ユキくんがいないと……私……」
ユキの中で警報が鳴る。ここで“そんなことない”と返したら、相手はそれを命綱にする。返さなければ、全チャに投げられる。詰んでいる。詰んでいるのに、ユキは反射で優しさを選ぶ。
「……Laylaさん、大丈夫です。仲間だから」
仲間。誰にでも言える。だから残酷だった。
Laylaの涙が止まる。止まったまま、表情だけが崩れていく。泣くより怖い瞬間がある。泣くのをやめた人間が、笑う前の顔だ。
「……仲間……」
かすれた声。次の瞬間、彼女は踵を返した。走らない。走る余裕がない。ふらつく足取りで、しかし確実に離れていく。誰も追わない。追う気がないのではない。追ったら自分が燃えると知っているからだ。
その夜、全チャが落ちた。
《ほんとつらい》
《生きてるの、向いてない》
《ごめんね》
セーフティゾーンにいた全員が、同時に息を飲んだ。
全チャは爆弾だ。個チャなら二人の問題で済む。全チャに投げた瞬間、それは“公開処刑”になる。責められるのは発言者ではない。名指しされた相手だ。たとえ名指しがなくても、誰のことか分かる空気が作られる。
案の定、囁きが始まった。
「え、Laylaどうした」
「また病んでる……?」
「ユキ絡みかな」
ユキは画面を見つめていた。目が痛い。頭が重い。通知が鳴るたび、心臓が跳ねる。責め、同情、好奇、依存。全部が、同じ重さで落ちてくる。
数分後。
《ごめんなさい》
《大丈夫です》
《迷惑かけません》
撤回。回収。反省。
そして、誰もが一度だけ安心する。
“今回はここで終わる”という、都合のいい期待で。
終わらない。
翌日、ユキは少し遅れてログインした。目の下が青い。呼吸が浅い。周囲の視線が刺さる。優しさが罪になる世界で、優しい人間はただの的だ。
モユルはすぐ近づいた。迷いなく距離を詰める。誰よりも先に隣を取る。
「ユキ。大丈夫?」
「……はい」
嘘だ。けれど彼は嘘をつく。嘘をつかないと、生きていけない。
「今日、私と行こう。デイリー」
相談ではなく決定。逃げ道を塞ぐ優しさ。救済の形をした拘束。
「……わかりました」
その返事を聞いて、モユルの口元がほんの少し緩む。勝った、という微細な満足。誰も気づかないほど小さいのに、ユキだけはそれを感じ取ってしまう。感じ取って、何も言えない。
その時だった。
《……ごめん》
《やっぱ無理》
全チャが、また落ちた。
さっきのは“発作”。
今度のは“宣言”に近い。
広場の空気が、一斉に引きつる。
「またか」と思った人間ほど、言葉を飲み込む。
口にした瞬間、自分が渦に引きずり込まれると知っているからだ。
そして、決定打。
《昨日、邪魔って言われた》
《私、いらないんだって》
名指しはない。
なのに全員が、誰のことか分かる。
ユキの喉が、きゅっと縮む。
説明しなきゃ、と思う。
でも説明すれば、“言い訳”になる。
黙れば、“肯定”になる。
詰んでいる。
柱の陰からLaylaが現れた。赤い目。泣いた跡。けれど泣くだけでは終わらない目。
「……ユキくん」
声が震えているのに、足は止まらない。近づく。近づく。距離が縮まるほど、彼女の中の不安が膨らむ。だからさらに近づく。近づけば安心できると信じている人間の動きだ。
ユキは一歩下がりかけて、踏みとどまった。踏みとどまる癖がある。拒絶しない癖がある。
「昨日……どうして……来てくれなかったの……?」
モユルの視線が鋭くなる。
「Layla。今はやめて」
「やめない……!」
Laylaの声が跳ねる。壊れかけた人間の声は、驚くほど鋭い。自分を守るための刃だ。
「私……あれだけ言ったのに……ユキくん、何も……」
ユキの喉が詰まる。何も言えない。言えば燃える。言わなければ燃える。
その瞬間、Laylaの手が震えた。
震えて、スマホみたいなUIに触れる。
そして――
《私、邪魔なんだって》
《ユキくんがそう言った》
まただ。
また、全チャ。
同じ形。
同じ癖。
同じ“みんな見て”。
周囲の顔が一段冷える。
同情と苛立ちが、同じ場所でぶつかる。
誰も止められない。
止めたら、次は自分が悪者になる。
ユキは息ができなくなった。喉が鳴る。手が震える。視界が狭くなる。脳が熱くなる。体が自分のものじゃなくなる。
積み重ねが、限界に触れた。
膝が折れる。倒れるのではなく、崩れる。空気が抜けた人形みたいに。目の前の景色が遠のく。
遠くでアル中が頭を抱えていた。誰にも聞こえない声で、胃の底から絞り出すように呟く。
「……あー……まただ……」
そしてナカジマは、一歩引いた位置で、静かに見ていた。
手は出さない。出さなくても勝てる。こういう局面で一番強いのは、“直接汚れない人間”だ。
彼は柔らかい声で言った。
「ユキくん、優しすぎるんだよ」
その言葉は慰めの形をして、毒だった。優しいから悪い。優しいから責任がある。優しいから罰を受けろ。そう言っているのと同じだ。
ユキの意識が薄れる中、その言葉だけが刺さっていった。
彼はいつだって結論を自分に向ける癖がある。そうすれば整理できる。自分が悪いなら、自分が我慢すればいい。そうやって生き延びてきた。
だがこの世界では、その癖が彼を殺す。
モユルがユキを抱え上げた。守るように、奪うように。
「大丈夫。私がいる」
救いの言葉。檻の鍵。どちらにも聞こえる声。
Laylaは泣きながら笑った。
みっふぃは歯を噛み、次の手を考える。
ナカジマは静かに、次に“孤立”を完成させる手を組み立てる。
アル中は胃の痛みに耐えながら、誰も止められないことを悟る。
その瞬間、誰の目にも明らかだった。
これは恋ではない。救済でもない。
“囲い込み”だ。
そしてユキは、その中心に固定された。
逃げられないように。
相変わらず精神リンチ博覧会依存粘着パビリオン状態ですが、第2部ではユキのカタルシスまで書けたらいいなって感じです。お付き合いよろしくお願いします




