第8話 年下だから、言えなかった
――橘さんが倒れたとき、
俺は、自分が思っていた以上に冷静じゃなかった。
*
会議室で彼女がふらついた瞬間、頭の中が真っ白になった。
支えた腕は細くて、驚くほど軽くて。
この人が、あんなに大きな仕事を背負っているなんて、信じられなかった。
「……無理、しすぎです」
そう言った自分の声が、少し震えていたのを覚えている。
でも、それ以上の言葉は飲み込んだ。
言えなかった。
言ってはいけないと思った。
俺は年下で、部下で、
彼女には“ちゃんとした大人の選択肢”が他にある。
だから。
*
橘さんが、佐倉さんと会っていることは知っていた。
社内での噂。
彼女のスマホに表示された名前。
何より、あの人の存在感。
同年代で、余裕があって、社会的にも釣り合う。
――正解だ。
そう思った。
俺みたいな年下が、感情を挟む場所じゃない。
だから距離を取った。
必要以上に気づかないふりをした。
橘さんが困っていても、
「橘さんなら大丈夫ですよね」と言った。
あれは、優しさなんかじゃない。
ただの、臆病だった。
*
正直に言えば。
最初から、気づいていた。
彼女は、強いふりをするのが上手すぎる。
資料を完璧に仕上げて、
誰よりも早く決断して、
誰よりも遅くまで残る。
それを「努力」だと思わせない。
でも、帰り際に一瞬だけ肩を落とすのを、
俺は何度も見ていた。
「無理しないでくださいね」
最初は、それだけでよかった。
それ以上、近づいたら、
彼女が俺を“選択肢”として見てしまうかもしれない。
それが、怖かった。
*
送っただけだった。
――今日は、ちゃんと休めてますか?
返事が来た。
――少し、疲れました。
その一文で、胸が締めつけられた。
“少し”なんかじゃないはずだ。
それでも彼女は、弱音を小さく整えてからしか出さない。
俺は、送った。
――“大丈夫”って言わなくていいので。
その後、彼女が倒れた。
……間に合わなかった。
*
家まで送った帰り道、
俺は何度も考えた。
もし俺が年上だったら。
もし俺が部下じゃなかったら。
もし俺が、もっと堂々とした立場だったら。
きっと、とっくに言っていた。
「あなたが好きです」って。
でも、現実は違う。
だから俺は、選んだ。
“離れる”という選択を。
*
その日、橘さんからメッセージが来た。
――今日は、ちゃんと話せました。
画面を見て、息を吐いた。
よかった。
ちゃんと、大人の選択ができたんだ。
そう思おうとした。
でも、続けて来たメッセージ。
――少しだけ。でも、逃げませんでした。
逃げなかった。
その言葉が、胸に刺さる。
……俺は?
年下だから、
部下だから、
彼女の人生を邪魔しないためだと言い訳して。
本当は、一番逃げていたのは、俺じゃないか。
*
翌朝。
オフィスで橘さんと目が合った。
ほんの一瞬。
でも、その目は前よりずっと、まっすぐだった。
その視線を見たとき、
俺は覚悟を決めた。
年下でも。
部下でも。
この人を想う気持ちだけは、
誤魔化さない。
たとえ、選ばれなくても。
たとえ、彼女が別の道を選んでも。
俺は、ちゃんと――言う。
それが、俺が彼女に向けられる、
唯一の誠実さだと思ったから。
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