第6話 強い人は、倒れるまで気づかれない
――大丈夫。
その言葉を、私は何度使ってきただろう。
仕事で忙しいときも。
心がすり減っているときも。
誰かに心配されそうになったときも。
大丈夫。
問題ない。
平気。
そう言えば、全部片付くと思っていた。
*
その日は、朝から頭が重かった。
熱があるわけじゃない。
目眩がするほどでもない。
ただ、身体の奥に鉛が詰まっているみたいに、動きが鈍い。
「……集中しなきゃ」
自分に言い聞かせながら、資料に目を通す。
相沢くんは、今日も淡々と仕事をこなしている。
必要な報告はするけれど、それ以上は何も言わない。
視線も、最低限。
それが正しい距離だと、頭では分かっている。
でも、胸はずっと、ざわついたままだった。
*
午後の会議中。
ホワイトボードに書かれた数字を見つめながら、突然、視界が揺れた。
――あれ?
一瞬、床が傾いたような感覚。
次の瞬間、耳鳴りがして、周囲の声が遠ざかる。
「……橘さん?」
誰かが名前を呼んだ。
返事をしようとして、言葉が出ない。
足に力が入らず、膝が崩れた。
*
気がつくと、ソファに寝かされていた。
天井が、ぼんやりと見える。
「橘さん、分かります?」
近くで聞こえた声に、ゆっくりと視線を動かす。
相沢くんだった。
彼の顔は、今まで見たことがないくらい、険しい。
「……私」
声が、かすれる。
「無理、しましたね」
責める口調じゃない。
でも、はっきりとした断定。
「すみません……会議中に……」
謝ろうとすると、相沢くんは首を振った。
「謝らなくていいです」
そう言ってから、一拍置く。
「でも、“大丈夫”って言うのは、やめてください」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「倒れるまで気づかれないの、辛くないですか」
辛い。
――辛いに、決まっている。
でも、それを口に出したら、今まで積み上げてきたものが、全部崩れてしまいそうで。
「……みんな、忙しいから」
絞り出した言葉は、あまりにも弱々しかった。
相沢くんは、拳をぎゅっと握りしめてから、静かに言った。
「忙しくても、気づく人はいます」
そして、少しだけ声を落とす。
「僕は、気づいてました」
その一言で、涙が溢れた。
止めようとしても、止まらない。
「……じゃあ、どうして」
声が震える。
「どうして、離れたの……」
相沢くんの目が、大きく揺れた。
「それは――」
言いかけて、彼は言葉を飲み込む。
「……橘さんが、選んだ道を、邪魔したくなかったからです」
選んだ道。
正しい大人の選択。
「私、そんなにちゃんと選べてる?」
涙を拭いながら、聞いた。
「正しい顔して、無理して、倒れて……それが?」
相沢くんは、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
*
「今日は、早退してください」
「でも――」
「上司命令です」
珍しく、きっぱりとした口調。
「送ります。家まで」
断る力は、もう残っていなかった。
*
タクシーの中。
窓の外を流れる景色を眺めながら、私はぽつりと言った。
「私、弱いところ見せるの、怖いの」
相沢くんは、すぐに答えない。
「強い人ほど、そうですね」
「弱くなったら、誰にも必要とされなくなる気がして」
「そんなこと、ないです」
即答だった。
「少なくとも、僕は」
それ以上は、言わない。
でも、それで十分だった。
家の前に着くと、相沢くんは言った。
「今日は、ちゃんと休んでください。連絡も、仕事も、全部」
「……ありがとう」
「それと」
一瞬、迷ってから。
「もう一つだけ」
視線が合う。
「離れたのは、嫌いになったからじゃないです」
心臓が、強く跳ねた。
「むしろ、逆です」
それだけ言って、彼はドアを閉めた。
玄関で一人になり、私は壁にもたれかかる。
強い人は、倒れるまで気づかれない。
でも。
気づいてくれる人が、ちゃんといた。
それを、失いたくないと思ってしまった自分を、
私はもう、否定できなかった。
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