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仕事は完璧、恋は不器用。年下部下にだけ弱い私  作者: 無明灯


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第5話 近づかない優しさ

 月曜日の朝。


 オフィスに入った瞬間、私は違和感に気づいた。


 相沢くんが、いない。


 彼はいつも、私より少し早く出社している。

 それが当たり前になっていたから、空席がやけに目についた。


 「おはようございます」


 後ろから声をかけられて振り返ると、少し遅れて相沢くんが入ってくるところだった。


 「おはよう」


 挨拶は、いつも通り。

 でも――それだけ。


 目が合わない。

 それ以上の言葉もない。


 ……気のせい?


 そう思おうとして、やめた。

 ここ最近、彼は確かに少し距離を取っている。



 午前中の会議。


 相沢くんの発言は的確で、資料も完璧だった。

 ただ、私にだけ向けられていた“視線”が、ない。


 以前なら、私が詰まった瞬間に補足を入れてくれたところも、今日は黙っている。


 会議が終わり、部下たちが出ていく中で、私は思わず声をかけた。


 「相沢くん」


 彼は、少し驚いたように振り返った。


 「何かありましたか?」


 その言い方が、あまりにも“部下”だった。


 「さっきの件、補足してくれてもよかったのに」


 そう言うと、彼は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。


 「橘さんなら、問題ないと思ったので」


 ――問題ない。


 その言葉が、胸に刺さる。


 「……そう」


 それ以上、何も言えなかった。



 昼休み。


 相沢くんは、今日は他の同僚と食事に行ったらしい。

 私のところに、声はかからなかった。


 仕方ない。

 上司と部下だ。

 距離がある方が、正しい。


 頭では、そう分かっている。


 でも、なぜか、落ち着かない。



 夕方。


 トラブルが起きた。


 急ぎで修正が必要なデータに不備が見つかり、取引先から連絡が入った。

 確認不足――私の判断ミスだった。


 「今日中に、差し替え可能ですか?」


 電話口の相手の声は冷静だが、こちらの対応次第で関係が悪化しかねない。


 「……確認します」


 電話を切った瞬間、心臓が強く鳴った。


 周囲は忙しそうにしている。

 誰かに頼りたい。

 でも、声が出ない。


 そのとき。


 「橘さん」


 相沢くんが、静かに近づいてきた。


 「今の、取引先からですよね」


 「……ええ」


 「データ、見せてもらえますか」


 その声は、以前と変わらない。

 落ち着いていて、冷静で。


 私は黙って、画面を彼に向けた。


 数秒、相沢くんは画面を見つめてから言った。


 「修正、今日中にいけます。僕がやります」


 「でも――」


 「橘さんは、先方への説明をお願いします。僕は裏で動きます」


 完璧な役割分担。


 仕事としては、理想的。


 なのに。


 「……ありがとう」


 そう言うと、彼は一瞬だけ、目を伏せた。


 「仕事ですから」


 その言葉で、決定的に分かった。


 彼は、意識的に線を引いている。



 修正は無事に終わり、問題は最小限で済んだ。


 帰り際、オフィスには私と相沢くんだけが残っていた。


 「今日は、助かりました」


 「いえ」


 それだけ。


 以前なら、ここで「ちゃんと休んでくださいね」と言ってくれた。

 でも、今日は言わない。


 我慢できずに、私は聞いてしまった。


 「……私、何かしました?」


 相沢くんの動きが、一瞬止まった。


 「どういう意味ですか?」


 「最近、距離を感じる」


 言ってしまった後で、後悔する。

 上司が部下に言う台詞じゃない。


 でも、相沢くんは逃げなかった。


 しばらく沈黙したあと、静かに口を開く。


 「橘さんは、ちゃんと大人の選択をされてますから」


 胸が、きゅっと縮む。


 「それを邪魔するのは、違うと思っただけです」


 「……誰の話?」


 分かっているくせに、聞いた。


 相沢くんは、少しだけ苦く笑った。


 「年下の部下、ですよ」


 その言葉は、冗談のようで、冗談じゃなかった。


 「僕は、橘さんの仕事を尊敬してます。だからこそ」


 そこで言葉を切る。


 「これ以上、近づかない方がいいと思いました」


 近づかない優しさ。


 それが、こんなにも苦しいなんて。


 「……そう」


 私は、それ以上何も言えなかった。


 彼は軽く頭を下げて、オフィスを出ていく。


 一人残されたフロアで、私はデスクに手をついた。


 正しい距離。

 正しい判断。

 正しい大人。


 全部、正しいはずなのに。


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 ――近づかないでいられるほど、私はもう、平気じゃない。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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