第5話 近づかない優しさ
月曜日の朝。
オフィスに入った瞬間、私は違和感に気づいた。
相沢くんが、いない。
彼はいつも、私より少し早く出社している。
それが当たり前になっていたから、空席がやけに目についた。
「おはようございます」
後ろから声をかけられて振り返ると、少し遅れて相沢くんが入ってくるところだった。
「おはよう」
挨拶は、いつも通り。
でも――それだけ。
目が合わない。
それ以上の言葉もない。
……気のせい?
そう思おうとして、やめた。
ここ最近、彼は確かに少し距離を取っている。
*
午前中の会議。
相沢くんの発言は的確で、資料も完璧だった。
ただ、私にだけ向けられていた“視線”が、ない。
以前なら、私が詰まった瞬間に補足を入れてくれたところも、今日は黙っている。
会議が終わり、部下たちが出ていく中で、私は思わず声をかけた。
「相沢くん」
彼は、少し驚いたように振り返った。
「何かありましたか?」
その言い方が、あまりにも“部下”だった。
「さっきの件、補足してくれてもよかったのに」
そう言うと、彼は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「橘さんなら、問題ないと思ったので」
――問題ない。
その言葉が、胸に刺さる。
「……そう」
それ以上、何も言えなかった。
*
昼休み。
相沢くんは、今日は他の同僚と食事に行ったらしい。
私のところに、声はかからなかった。
仕方ない。
上司と部下だ。
距離がある方が、正しい。
頭では、そう分かっている。
でも、なぜか、落ち着かない。
*
夕方。
トラブルが起きた。
急ぎで修正が必要なデータに不備が見つかり、取引先から連絡が入った。
確認不足――私の判断ミスだった。
「今日中に、差し替え可能ですか?」
電話口の相手の声は冷静だが、こちらの対応次第で関係が悪化しかねない。
「……確認します」
電話を切った瞬間、心臓が強く鳴った。
周囲は忙しそうにしている。
誰かに頼りたい。
でも、声が出ない。
そのとき。
「橘さん」
相沢くんが、静かに近づいてきた。
「今の、取引先からですよね」
「……ええ」
「データ、見せてもらえますか」
その声は、以前と変わらない。
落ち着いていて、冷静で。
私は黙って、画面を彼に向けた。
数秒、相沢くんは画面を見つめてから言った。
「修正、今日中にいけます。僕がやります」
「でも――」
「橘さんは、先方への説明をお願いします。僕は裏で動きます」
完璧な役割分担。
仕事としては、理想的。
なのに。
「……ありがとう」
そう言うと、彼は一瞬だけ、目を伏せた。
「仕事ですから」
その言葉で、決定的に分かった。
彼は、意識的に線を引いている。
*
修正は無事に終わり、問題は最小限で済んだ。
帰り際、オフィスには私と相沢くんだけが残っていた。
「今日は、助かりました」
「いえ」
それだけ。
以前なら、ここで「ちゃんと休んでくださいね」と言ってくれた。
でも、今日は言わない。
我慢できずに、私は聞いてしまった。
「……私、何かしました?」
相沢くんの動きが、一瞬止まった。
「どういう意味ですか?」
「最近、距離を感じる」
言ってしまった後で、後悔する。
上司が部下に言う台詞じゃない。
でも、相沢くんは逃げなかった。
しばらく沈黙したあと、静かに口を開く。
「橘さんは、ちゃんと大人の選択をされてますから」
胸が、きゅっと縮む。
「それを邪魔するのは、違うと思っただけです」
「……誰の話?」
分かっているくせに、聞いた。
相沢くんは、少しだけ苦く笑った。
「年下の部下、ですよ」
その言葉は、冗談のようで、冗談じゃなかった。
「僕は、橘さんの仕事を尊敬してます。だからこそ」
そこで言葉を切る。
「これ以上、近づかない方がいいと思いました」
近づかない優しさ。
それが、こんなにも苦しいなんて。
「……そう」
私は、それ以上何も言えなかった。
彼は軽く頭を下げて、オフィスを出ていく。
一人残されたフロアで、私はデスクに手をついた。
正しい距離。
正しい判断。
正しい大人。
全部、正しいはずなのに。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
――近づかないでいられるほど、私はもう、平気じゃない。
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