第3話 大人の男は、正解に見える
相沢くんを意識している――
そう自覚するには、まだ早い。
少なくとも、その時の私はそう思っていた。
*
その日の午後、私は久しぶりに社外の人間と二人きりで打ち合わせをしていた。
相手は、コンサル会社のプロジェクトマネージャー。
佐倉 恒一、三十八歳。
落ち着いた低い声、無駄のない身のこなし。
スーツの着こなしも洗練されていて、年相応の余裕がにじんでいる。
「橘さんとは、以前一度ご一緒しましたよね」
「ええ、三年前の案件で」
「覚えててくださって嬉しいな。あの時から、かなり印象に残ってました」
さらりと、そういうことを言う。
嫌味がない。
むしろ、自然。
――こういう人が、“大人の男”なんだろう。
打ち合わせはスムーズに終わり、資料を片付けていると、佐倉さんが声をかけてきた。
「このあと、少し時間あります?」
「いえ、今日は――」
断ろうとして、言葉が止まる。
今日は、特に予定はない。
ただ、早く帰ろうと思っていただけだ。
「軽くコーヒーでも。仕事の続きということで」
仕事。
その言葉に、私は小さく頷いた。
*
オフィス近くの静かなカフェ。
佐倉さんは、私より少し遅れてコーヒーを口に運びながら言った。
「相変わらず、無理してますよね」
「……分かります?」
「ええ。優秀な人ほど、そういう癖がある」
どこかで聞いたような台詞。
でも、相沢くんのそれとは、少し違う。
佐倉さんの言葉は、“理解している大人”の響きがした。
「橘さんみたいな人は、ちゃんと甘えられる相手がいた方がいい」
「……そうでしょうか」
「ええ。守ってくれる人、必要ですよ」
守る。
その言葉に、なぜか違和感を覚えた。
嫌じゃない。
でも、すっと腑に落ちる感じもしない。
「今は、仕事が一番大事ですから」
そう答えると、佐倉さんは微笑った。
「分かります。でも、仕事が落ち着いたら、声かけてください。ちゃんと大人の時間、付き合いますから」
――大人の時間。
それは、私が今まで選んできた“正解”の延長線にあるものだった。
年齢。
社会的立場。
周囲から見た釣り合い。
どれも、安心できる要素ばかり。
*
会社に戻ると、すでにフロアの明かりは少し落とされていた。
自席に戻ると、相沢くんがまだ残っているのが見えた。
「あれ、橘さん。もう帰ったと思ってました」
「ちょっと、打ち合わせの延長で」
嘘ではない。
でも、なぜか説明するのが後ろめたい。
相沢くんは、私の顔を一瞬だけ見てから言った。
「……疲れてます?」
「そんなこと――」
言いかけて、やめた。
今日は、少しだけ、気持ちがざわついている。
「大丈夫です」
そう言うと、彼はそれ以上踏み込まなかった。
それが、余計に胸に刺さる。
――佐倉さんなら、もっと強く言ってくるだろう。
でも、相沢くんは違う。
踏み込まない。押し付けない。
「橘さん」
帰り際、彼が言った。
「今日も、ちゃんと食べました?」
その一言で、佐倉さんの言葉が、少し色あせた。
守る、と言われるより。
こうして、当たり前のことを気にかけられる方が。
……なぜ、そんなふうに思ってしまうのだろう。
「食べたわよ。サラダとスープ」
「それだけ?」
「……それだけ」
相沢くんは、ため息をついてから、苦笑した。
「やっぱり」
その声は、呆れと心配が半分ずつ混じっている。
大人の男は、正解に見える。
でも。
年下の部下の一言で、こんなにも心が揺れる私は、きっともう――。
気づかないふりを、続けられなくなっていた。
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