第2話 年下のくせに、距離感がおかしい
結局、あの日は相沢くんの言葉どおり、いつもより一時間早く会社を出た。
だからといって、何か特別なことをしたわけじゃない。
スーパーで総菜を買って、シャワーを浴びて、ベッドに横になるだけ。
それでも、布団の中で目を閉じたとき、胸の奥にあった重たい塊が、少しだけ小さくなっているのを感じた。
――気のせい、よね。
年下の部下に気遣われただけで、そんなふうに感じるなんて。
自分で自分に呆れつつ、私は眠りに落ちた。
*
翌朝。
オフィスに入ると、すでに相沢くんはデスクに座っていた。
私に気づくと、すっと立ち上がって会釈する。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけのやり取りなのに、なぜか昨日の会話が頭をよぎった。
――ちゃんと、早く帰ったかな。
そんなふうに考えている自分に、内心で首を振る。
上司が部下の生活を気にするなんて、行き過ぎだ。
午前中は資料作成と確認作業に追われ、あっという間に昼休憩の時間になった。
「橘さん、今日のランチどうします?」
声をかけてきたのは、また相沢くんだった。
「今日は外に行く時間ないかな。午後イチで打ち合わせだし」
そう答えると、彼は少し考えるような顔をしてから言った。
「じゃあ、コンビニで軽く買ってきます。ついでなので」
「え、いいわよ。自分で――」
「昨日、休憩取れてなかったですよね」
その一言で、反論が止まった。
……昨日の話、覚えてるんだ。
「……お願いしようかな」
そう言うと、相沢くんは「はい」と短く答えて、さっとオフィスを出ていった。
数分後、戻ってきた彼の手には、サンドイッチとサラダ、それから小さなカップのスープ。
「胃に重くならないやつにしました」
まるで、長年一緒に働いているかのような自然さ。
「……ありがとう。気が利くのね」
「よく言われます」
さらっと言うところが、また腹立たしい。
でも、嫌じゃない。
それどころか、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「相沢くんって、前の部署でもこんな感じだったの?」
何気なく聞いたつもりだった。
「どうでしょう。あんまり意識したことないです」
「モテそうだけど」
言った瞬間、しまったと思った。
上司が部下に言う台詞じゃない。
相沢くんは一瞬目を丸くしてから、少し困ったように笑った。
「どうなんでしょう。年下扱いされることは多いですね」
――年下扱い。
その言葉に、なぜか胸がちくりとする。
「……それ、嫌?」
「嫌じゃないです。でも」
彼は一拍置いて、私をまっすぐ見た。
「橘さんにまでそう思われてるなら、ちょっとだけ複雑です」
心臓が、どくんと鳴った。
「それ、どういう意味?」
冗談めかして聞いたつもりだったのに、声が少しだけ上ずる。
相沢くんはすぐに視線を逸らした。
「……すみません。今のは忘れてください」
忘れられるわけがない。
そのまま、微妙な空気のまま昼休憩は終わり、午後の業務に入った。
*
夕方。
取引先との打ち合わせが長引き、気づけば外はすっかり暗くなっていた。
資料をまとめながら、肩を回すと、鈍い痛みが走る。
――また、無理してる。
分かっているのに、止められない。
「橘さん」
いつの間にか、相沢くんが近くに立っていた。
「大丈夫ですか。肩、かなり凝ってますよね」
「……分かる?」
「分かります。さっきから、動きが硬いので」
観察されている。
それなのに、不快じゃない。
「今日はもう切り上げませんか。あとは明日でも」
「でも――」
「大丈夫です。僕、フォローします」
その言葉は、不思議な説得力を持っていた。
私は少し迷ってから、パソコンを閉じる。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
相沢くんは、ほっとしたように微笑った。
その表情を見て、私は気づく。
彼は、私が弱るのを“待っていた”わけじゃない。
ただ、無理をしていることを、見逃さなかっただけ。
それは、上司としての評価とも、恋愛感情とも、少し違う。
もっと――静かで、深い何か。
「橘さん」
帰り際、彼が言った。
「ちゃんと頼ってくださいね。強い人ほど、そうしないので」
年下のくせに。
部下のくせに。
どうして、こんなにも的確に、私の奥を突いてくるのだろう。
私は何も言い返せないまま、ただ頷いた。
その背中を見送りながら、胸の奥で、小さな警報が鳴り始める。
――これは、ただの部下じゃない。
そう認めるのは、まだ少し怖かった。
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