美術教師バッカスのレモン色の恋
R15注意
「先生、私の✕✕もらってよ」
夕方、美術教室の控え室にいた教師バッカス・リモーネは、突然やってきた元教え子ヒルダ・シュトラウスにそんなことを言われて、持っていた絵筆を取り落とした。
バッカスが描いていたのは色が半分ほど塗られた果物の絵だ。皿に盛られたリンゴとブドウとレモンの絵。バッカスは何か目的があってこの絵を描き出したわけではなく、絵に集中することで、傷付いた心の状態を一時的にでも忘れようとしていた。
バッカスは恋人と別れたばかりだ。結婚も考えていた彼女だったが、「他に好きな人ができたから」という理由でフラれた。
「ヒルダ君、どうしたんだ? 何かあったのか?」
肩口で切り揃えられた真っ直ぐな黒髪と意志の強そうな黒い瞳を持ち、剣術の特待生でもあったヒルダは、一見して、今のバッカスのように悩みや落ち込みからは程遠い性格をしているように見える。しかしバッカスは、ヒルダがまだ教え子だった頃に、彼女の瞳が陰り、涙に濡れた時期があったことを知っている。
ヒルダは弟を誘拐されたことがあった。ヒルダは発見したその犯人を感情に任せて剣で斬り捨てようとしたが、その時に誤って犯人の娘を斬ってしまった。
斬られた子は一命を取り留めたものの、初めて人を斬ったヒルダはその時のことがトラウマになってしまった。二度と剣が握れなくなったヒルダは、剣術の道も諦めて、バッカスの勤めていた学校から別の学校へ転校して行った。
ヒルダとはそれきり会っていなかったが、たまに近況を知らせる手紙が送られてきたので、慕われているのはわかっていた。しかし、「✕✕もらってよ」発言には動揺を禁じ得ない。
「私、昨日成人したんだ。だから先生✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕て、ハンターになるの」
この世界には人間に似た見た目の「獣人」という生き物がいて、人を襲ったり金品を強奪したりと、様々な害を為している。獣人を狩るために国は「銃騎士隊」という組織を作ったが、銃騎士になれるのは男性だけだった。
ヒルダのように女性で獣人討伐を行いたい場合は、ハンター協会に登録して活動を行うのが一般的だ。
ヒルダは剣は使えなくなったが、その後諦めずに銃術を鍛えたという話だった。
獣人は人間を「番」にすることがある。
ただ、その対象は未経験の者に限られるらしく、ハンター活動によって獣人に汚されないために、先に「卒業」してしまうのはよくある話だった。とはいえ――
「僕とヒルダ君は教師と生徒の関係で……」
「『元』でしょ。私は学校もちゃんと卒業したし、成人もした。今は立派な大人です。先生は私のこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
その問いにはさらっと答えられた。
「じゃあ、いいんじゃない? 私、相手は誰がいいかなって考えた時に、真っ先に先生が思い浮かんだんだよね。先生は私の恩人だし」
ヒルダのトラウマは当初誰にも気付かれなかったが、ヒルダの異変に最初に気付いたのがバッカスだった。バッカスは授業中、絵具の赤色――鮮血の色――を見て真っ青になり震えているヒルダに気付き、診療を受けさせるようにと彼女の両親に勧めた。
ヒルダはその時のことをとても感謝していると、手紙にも何度も書いていた。
「駄目ならナッシルにでも頼んでみるよ、無理言ってごめんね先生」
「ナッシルだけはやめておきなさい!」
渋るバッカスを見たヒルダは少し困ったような顔になり、彼女の同級生の名前を上げたが、それを聞いたバッカスは驚いて止めた。
ナッシルは無類の女好きだが、最近は娼館でボーイをしているとも聞き、下手に関係すれば娼婦に落とされるのではないかと思ったからだ。
「ナッシルが駄目なら、あとは――」
ヒルダが上げていくのは校内でも有名なろくでなしばかりだった。ヒルダはどうやら後腐れのない相手を選んでいるようだったが、バッカスはこの元教え子がかなり心配になった。
「ヒルダ君、そういうのは好きな人とするものだよ。誰か好きな人はいないのか?」
「先生が好きです」
愛の告白をされた――と思った――バッカスは、年甲斐もなく真っ赤になった。
「そ、そういうことなら、わ、わかった。僕としようヒルダ君」
「やったー! 大好き! 愛してる先生!」
決意を込めてそう返事をすると、ヒルダが叫んで飛びついてくる。教え子だった頃よりも成長しているヒルダの胸をムギュリと押し付けられたバッカスは、喉をゴクリと鳴らした。
バッカスの退勤後に直行したホテルにて、二人は共同作業を行い、バッカスの中でヒルダは「元教え子」から「愛する人」に変わった。
失恋を癒すには新しい恋である。バッカスはヒルダとの交際が始まったのだと思っていた。しかしそう思っていたのはバッカスだけだった。
「ありがとう先生、これで私ハンターになれるよ! 先生も新しい恋人が見つかるといいね! じゃあ、またねー!」
「え?」
事後、あまりにもあっさりと、そしてあまりにもさっぱりとした清々しい笑みを浮かべたヒルダは、今回のことは「ワンナイトでした」的なことを言ってから、去っていった。
それまで二人で共同作業をしていたとは思えないほどの、屈託のない爽やかな表情を向けられたバッカスは、呆気にとられるばかりで何も言えず、帰路に就く彼女をただ見送った。
バッカスは精神統一のためにキャンバスに向き合った。ただ一心不乱に絵を描く。
「先生ー、なんでこの絵、レモンばっかり描いてるんですか?」
休み時間、黙々と果物の静物画に筆を入れているバッカスに興味を引かれたらしき生徒が尋ねてきた。ヒルダとワンナイトした日にも描いていたあの絵の続きだが、リンゴが一個とブドウが一房だけなのに対して、描き込まれるレモンの数があまりにも多かった。
皿からはみ出して机の上に転がる様子のレモンはもちろん、物理現象を無視して皿から浮く数々のレモンや、結合し合う二つのレモン、断面図から果汁を迸らせているレモンまであり、下書き段階では一個しかなかったレモンが、キャンバスの中にいくつも描き込まれていた。
目の下に隈を作るバッカスは生徒の質問に答えた。
「レモンばかり描いているのはね、先生の頭の中がレモンのことで一杯だからだよ」
(さっぱりとしたレモンみたいなあの子のことばっかり……)
教え子に手を出してしまった酸っぱさも相まって、バッカスはヒルダのことをレモンのような存在だと思った。
「ヒルダ、愛しています。付き合ってください」
ヒルダはよくバッカスに会いに来た。そして頻繁にデートもしたが、ヒルダ曰く、自分たちは「オトモダチ」であるらしく、共同作業はあの一度きりだけだった。
バッカスは、はっきりと伝えなかったのがいけなかったのだと思い、改めて彼女に愛の告白をしてみた。
「うーん…… でも私と先生って、年齢が離れてるよね?」
(酸っぱい…… あまりにも酸っぱすぎる……)
「告白玉砕」に衝撃を受けたバッカスは、その後に何か言っていたヒルダの言葉は全く耳に入らなかった。
「せ、先生?!」
ポロポロと涙が溢れ出てきて止まらず、いたたまれなくなってきたバッカスは、その場から走って逃げた。
「先生ー、なんでこのレモン、ドブみたいな色してるんですか?」
「これはね、絶望のレモン色なんだよ……」
綺麗で爽やかなレモン色の上に、バッカスの心情を現す黒色を塗ったら、灰色みたいな色になってしまった。
――――実はヒルダが「年齢」の話の後に、「年が離れてるけど、よろしくお願いします」と言っていたことを、バッカスは後から知る。
憎いくらいに爽やかでレモンのような彼女がやって来て、誤解が解けるまで――解けた後も――、バッカスは「レモンの絵」と向き合い続けた。
「先生ー、なんで先生の描くレモンは、いつも――――」
バッカスの描くレモン色はやがて、幸せ色に変化した。




