番外編 手のぬくもり(エリアス視点)
夜の王宮は、昼間とはうって変わってひどく静まり返っている。
誰もいない廊下を歩くたびに、靴音が冷たい石の床に吸い込まれていくような気がした。
執務を終えて書類を閉じたあとの沈黙が、時々、胸に堪える。
そのような夜には、いつも思い出してしまう。
あの人――リカのことを。
彼女は、私のもうひとりの母だった。
いや、“母のようだった”と表すほうが正しいのだろう。
幼いころの私は、泣き虫で気まぐれで、手が付けられないほどにひどく荒れていた。皆が困り果てる中で、ある日突然やってきた彼女だけは私のことを真正面から叱ってくれた。
私に向けて、泣くことを許してくれた。
そしてリカもまた、私と同じようによく泣いていた。その声はいつだって少し掠れていて、それでも不思議と心にまっすぐ届いていた。
あのころの私は、“母”という存在をとても恋しく思っていた。
母である王妃は病弱で、幼いころから顔を合わせる回数は限られていた。しかし母はそのわずかな時間でも、愛情をもって私に接し、時にはひどく叱ることもあった。そして、最後には必ず私を優しく抱きしめてくれた。
リカが初めて私を叱った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
その手はあたたかくて、けれどどこか震えていた。
恐らく、彼女も闘っていたのだろう。見知らぬ世界で、異なる生活の中で、多くの苦労もあったことだろう。それでも彼女は、ここまで私を育ててくれた。
私は成長するにつれて、彼女が時折遠くを見るような目をすることに気づいていた。
その先にあるのは、この世界ではない“どこか”。
名前も知らない人たちへの想いが、彼女の瞳の奥にいつも揺れていた。
幼い私は、それが嫌だった。その“どこか”に、私がいないことがとても怖かった。
そのため、彼女がその話をするときは決まって私は話題を逸らすようにしていた。
「リカ、今日の夕食は何?」
や、
「ウィルは剣の稽古ばかりでつまらない」
など。
今思えば、あれは子どもなりの嫉妬だったのだろう。彼女が、私だけを見てくれている時間が私は欲しかった。
――そして、彼女は去ってしまった。
現在私は、王としての日々を過ごしている。
責務を果たし国を治め、人々の前に立つようにもなった。
それでも夜になると、時々あの人の声が聞こえるような気がする。
「大丈夫、あなたならできるわ」
と。
まるで、あの日の続きのように。
あなたは私に、“生きること”を教えてくれた。
強くあれと叱り、優しく寄り添い時には涙を見せてくれた。
私はもう子どもではないけれど、今でもふとした瞬間に、あなたの膝枕の感触が恋しくなる。
恐らくそれは、母を恋しく思うというよりも、“あの時間”そのものが恋しいのだ。
あなたがいて、笑って叱って、私だけを見てくれていた、あのころの空気が。
王である前に、私もひとりの子どもだった。
そして今も、心のどこかでその子どもが眠っている。
夜風が頬を撫でるたびに、
あの手のぬくもりが甦る。私は、今日も静かに祈る。
この風が、あなたのいる世界へ届きますように――
――私は、あなたの子どもでいられて幸せでした。
と。
それだけは、どうしても伝えたかった。
月明かりが、静かに王の間に差し込んでいた。
私は目を閉じ、ただその光の中で彼女のぬくもりを思い出していた。
END




