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ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました  作者: 陽花紫


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8/10

番外編 静かな祈り(ウィル視点)

 光が消えたその後も、彼女の気配だけが世界に残っているような気がした。


 リカ様がこの世界を去って、どれほどの月日が流れたことだろう。

 私は相も変わらず、陛下――かつてのあの小さな王子――の傍に仕えている。

 すべては順調で、驚くほど穏やかだった。けれど心のどこかで、常に風が吹いているような気がした。その風は、彼女が笑ったときの匂いに似ていた。


 初めて彼女の姿を目にしたとき、私はただ困惑していた。

 異界から現れた女。礼儀も知らず、感情のままに言葉をぶつけてくる。

 王子に対しても、まるで母親のように怒り、泣き、抱きしめた。

 彼女の存在は、私の中の秩序というものをすべて乱していった。


 しかしある日、王子が高熱を出して倒れてしまったときのこと。

 誰もが動揺する中で、彼女一人だけが迷いなく動いていた。額に布を当て夜通し看病をし、疲れ果ててそのまま椅子にもたれて眠ってしまっていた。


 淡い明かりが灯る部屋の中で、彼女の頬にかかる髪を見つめながら、私はふと呼吸の仕方を忘れてしまう。

 あの瞬間、自分の中の何かが変わったような気がした。しかしそれは、言葉では説明できないほどの思いだった。

 ただ、“この人を見ていると胸が痛む”という感覚だけが日ごとに増していった。


 厄介なことにその痛みは、やがて少しずつ形を持ちはじめる。

 彼女の声を耳にするだけで、心が波立つ。

 彼女が笑うと不思議と胸が温かくなり、他の誰かと話しているとなぜだか冷たいものを感じる。



 ある夜、彼女が焚き火のそばで手紙を書いていた。

 便箋の端に滲んだ涙を、私は何も言えずに見つめていた。

「娘さんに、また会える日が来るといいですね」

 そう声をかけると、彼女は少し笑って首を振った。

「どうかしら。帰りたいけど……いまの私が、あの頃の私じゃないような気もするの」

 その言葉に、胸の奥がざわついた。

 “帰りたい”と口にする彼女を見て、なぜか息が苦しくなった。


 その“誰か”の存在が、彼女を縛りつけているようで、そしてその“誰か”に、自分は決して勝てないことを知っていた。


 その夜、私は剣を磨きながら、心のどこかで――

 初めて、“嫉妬”というものを知ったのだ。



 次の日、彼女は王子に向けて本を読んでいた。

 その声はとても穏やかで、どこか眠気を誘うように優しかった。淡い光の中、笑う横顔がやけに近く感じられて、私は目をそらすことができなかった。

 その瞬間、自分の中で何かが決定的に変わったのを感じた。彼女のことを、一人の女性として見てしまうようになっていた。


 しかしその変化に、名前をつけることはできなかった。

 それは名を与えた瞬間に壊れてしまうような、かすかな祈りのようなものでもあった。



 彼女がいなくなってもなお、“祈り”だけが胸の奥で静かに息をしている。

 風が吹くたびに思い出すのは、彼女の声でも姿でもなく、ただその温度だけだ。


 もう触れられないはずのその温もりが、今も手のひらに残っているような気がする。


 

 陛下――かつての王子が、私に尋ねた。

「ウィル、リカは……。今も、笑っていると思うか?」

 私はしばし黙り、そして答えた。

「ええ。あの方はどこにいらっしゃっても、きっと、誰かのために笑っておられることでしょう」

 その言葉の奥に、私自身の“願い”が隠れていることを、陛下は気づいていただろうか。



 夜が更け、月草が咲く庭をひとり歩く。

 銀色の花が風に揺れ、淡い光をまき散らしていた。私はそっとその一輪を指で撫で、胸の中で小さく呟いた。


 ――この想いに、名前など必要ない。


 それは恋か、敬慕か、あるいは祈りなのかもわからない。

 ただひとつ確かなのは、あの人が私の中で“生きている”ということだけだ。



 風が吹く。

 あの日と同じ、柔らかであたたかな風が。

 きっと彼女は向こうの世界でも、あのときのように誰かを抱きしめて、優しく笑っているのだろう。


 そして私は、この胸に残る痛みを静かに抱きしめながら生きていくのだ。

 ――それが、私にできる唯一の祈り。



END


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