番外編 静かな祈り(ウィル視点)
光が消えたその後も、彼女の気配だけが世界に残っているような気がした。
リカ様がこの世界を去って、どれほどの月日が流れたことだろう。
私は相も変わらず、陛下――かつてのあの小さな王子――の傍に仕えている。
すべては順調で、驚くほど穏やかだった。けれど心のどこかで、常に風が吹いているような気がした。その風は、彼女が笑ったときの匂いに似ていた。
初めて彼女の姿を目にしたとき、私はただ困惑していた。
異界から現れた女。礼儀も知らず、感情のままに言葉をぶつけてくる。
王子に対しても、まるで母親のように怒り、泣き、抱きしめた。
彼女の存在は、私の中の秩序というものをすべて乱していった。
しかしある日、王子が高熱を出して倒れてしまったときのこと。
誰もが動揺する中で、彼女一人だけが迷いなく動いていた。額に布を当て夜通し看病をし、疲れ果ててそのまま椅子にもたれて眠ってしまっていた。
淡い明かりが灯る部屋の中で、彼女の頬にかかる髪を見つめながら、私はふと呼吸の仕方を忘れてしまう。
あの瞬間、自分の中の何かが変わったような気がした。しかしそれは、言葉では説明できないほどの思いだった。
ただ、“この人を見ていると胸が痛む”という感覚だけが日ごとに増していった。
厄介なことにその痛みは、やがて少しずつ形を持ちはじめる。
彼女の声を耳にするだけで、心が波立つ。
彼女が笑うと不思議と胸が温かくなり、他の誰かと話しているとなぜだか冷たいものを感じる。
ある夜、彼女が焚き火のそばで手紙を書いていた。
便箋の端に滲んだ涙を、私は何も言えずに見つめていた。
「娘さんに、また会える日が来るといいですね」
そう声をかけると、彼女は少し笑って首を振った。
「どうかしら。帰りたいけど……いまの私が、あの頃の私じゃないような気もするの」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
“帰りたい”と口にする彼女を見て、なぜか息が苦しくなった。
その“誰か”の存在が、彼女を縛りつけているようで、そしてその“誰か”に、自分は決して勝てないことを知っていた。
その夜、私は剣を磨きながら、心のどこかで――
初めて、“嫉妬”というものを知ったのだ。
次の日、彼女は王子に向けて本を読んでいた。
その声はとても穏やかで、どこか眠気を誘うように優しかった。淡い光の中、笑う横顔がやけに近く感じられて、私は目をそらすことができなかった。
その瞬間、自分の中で何かが決定的に変わったのを感じた。彼女のことを、一人の女性として見てしまうようになっていた。
しかしその変化に、名前をつけることはできなかった。
それは名を与えた瞬間に壊れてしまうような、かすかな祈りのようなものでもあった。
彼女がいなくなってもなお、“祈り”だけが胸の奥で静かに息をしている。
風が吹くたびに思い出すのは、彼女の声でも姿でもなく、ただその温度だけだ。
もう触れられないはずのその温もりが、今も手のひらに残っているような気がする。
陛下――かつての王子が、私に尋ねた。
「ウィル、リカは……。今も、笑っていると思うか?」
私はしばし黙り、そして答えた。
「ええ。あの方はどこにいらっしゃっても、きっと、誰かのために笑っておられることでしょう」
その言葉の奥に、私自身の“願い”が隠れていることを、陛下は気づいていただろうか。
夜が更け、月草が咲く庭をひとり歩く。
銀色の花が風に揺れ、淡い光をまき散らしていた。私はそっとその一輪を指で撫で、胸の中で小さく呟いた。
――この想いに、名前など必要ない。
それは恋か、敬慕か、あるいは祈りなのかもわからない。
ただひとつ確かなのは、あの人が私の中で“生きている”ということだけだ。
風が吹く。
あの日と同じ、柔らかであたたかな風が。
きっと彼女は向こうの世界でも、あのときのように誰かを抱きしめて、優しく笑っているのだろう。
そして私は、この胸に残る痛みを静かに抱きしめながら生きていくのだ。
――それが、私にできる唯一の祈り。
END




