役目を終えた私(完)
まぶしい光が、瞼の裏を照らしていた。
風の音、鳥のさえずり、そして――遠くで誰かの泣き声がする。
私は、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井に白いカーテン、それに小さなぬいぐるみが床に転がっている。
「ここは……」
その瞬間、胸の奥に何かがあふれ出した。
懐かしい匂いと、柔らかな布団の感触。現代の、自分の部屋だった。
時が、そのまま止まっていたのだ。
時計の針は、私が“いなくなった”あの日と同じ場所を指していた。
「ママ?」
扉の向こうから、小さな声がした。
私は慌てて起き上がり、扉を開ける。
そこに立っていたのは、二歳の娘――美桜。
少し眠たそうな顔で、私を見上げていた。
「みお!」
思わず、強く強く抱きしめる。
小さな身体の温もりがあまりにもリアルで、涙が溢れてとまらなかった。
「ママ、えんえんしてるの?」
「ううん……。うれしくて、泣いているのよ」
娘の頬に頬を寄せながら、私は心の中で呟いた。
――やっと、帰ってくることができた。
そして今度こそ、穏やかに笑えると信じて。
リビングに降りると、朝の光が差し込んでいた。
テーブルの上には、昨夜のままの食器が残っている。まるで時間がほんの一瞬、止まっていただけのようだった。
私は深呼吸をして、静かに片づけを始めることにした。
不思議と、手が軽い。同じ家事なのに、心のどこにも焦りがない。
――怒鳴らなくてもいい、完璧じゃなくてもいい。
――“今ここにいる”ことが、大切なんだ。
異世界での十数年が、私にそう教えてくれた。
昼過ぎに、私は小さな手をしっかりと繋いで公園へと出かけることにした。
みおは滑り台を見つけて、一目散に駆け出していく。
「ママ、みてー!」
「見てるわよ、すごいすごい!」
笑いながら、大きく手を振る。
その笑顔が、あの頃とはまるで違う。優しくてまっすぐで、何よりも自由だった。
ふと、空を見上げる。
柔らかな風がふわりと頬を撫でた。どこか遠くで、あの世界の香りがしたような気がした。
――ウィル、メアリー、エリアス。みんな、元気でいるかしら。
私は、胸の奥でそっと祈った。
「ママ、なにしてるの?」
「ちょっと、お友だちのこと考えていたの」
「ふーん……。ママにも、おともだちがいるの?」
「もちろんよ」
「ママ、えらいね」
「……えらくなんてないわ。ただ――もう一度、頑張ってみたいだけ」
みおは首をかしげて、いつものように笑っていた。
その笑顔が、エリアスの少年時代に重なって見えたような気がした。
夕暮れ時。
みおを寝かしつけて部屋を出たあと、私は机の前に座っていた。
異世界で書いていた、“届かない手紙”の続きを書きたくなったから。
ペンを手に取り、白い紙にゆっくりと綴る。
ウィルへ
あなたの言葉を、今でもよく覚えています。
「あなたは帰る場所を信じている」――その通りでした。
帰ったこの世界でも、私はようやく自分を信じられるようになりました。
そしてエリアス。
あなたの未来が、希望の光で満ちていますように。
どうか、この手紙が風に乗って届きますように。
書き終えると、静かに窓を開けた。
夜風がそっと紙を撫でて、ありもしないはずのハーブの香りがなぜか鼻をかすめた。
懐かしい――月草の匂い。
「……ありがとう」
と、私は小さく呟いた。
月明かりが、部屋を照らしている。
その光の下で、私は穏やかに微笑んだ。
過去の自分を責めることも、完璧を目指して苦しむことも、もうやめよう。大切なのは、“今この瞬間の、あたたかさ”を抱きしめること。
小さな寝息が、隣の部屋から聞こえる。その音が何よりの癒しだった。
私は静かに目を閉じ、ひとつ深く息を吸い込んだ。
「また一からやり直しだけど、これまでの経験が自信になったわ。娘のために、また頑張ってみようと思うの」
窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。
私はその光の中で、もう一度母として――
ひとりの人間として、生き直していく。
END
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この後いくつか番外編を投稿していく予定です。




