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ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました  作者: 陽花紫


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6/10

王子の成長

 朝靄が立ちこめる庭で、私はエリアスの背中を見つめていた。


 十数年前、幼い泣き虫だった王子は、今や背も伸びて、立派な青年になろうとしていた。

 剣を握る姿勢にも、もう迷いはない。視線はまっすぐにこの国の未来を見据えていた。


「殿下、肩に力が入りすぎですよ」

 いつものように、ウィルの静かな声が響く。

「わかっている。でも、今日はどうしても気が抜けないんだ」

「即位式ですからね」

 ふたりのやり取りを聞きながら、私は微笑んだ。

 

 この十数年、何度この光景を見たことだろう。

 叱って、笑って、泣いて――

 まるで、もうひとりの息子のようだった。


「リカ!」

 エリアスが、こちらを振り返る。

「ちゃんと見ててよ。今日で僕、子どもじゃなくなるんだから」

「そうね、しっかり見ておくわ」

 私は、強く頷いた。

「でも、どんなに偉くなっても……。私にとっては、小さなエリアスよ」

 彼は一瞬照れくさそうに笑ってから、そのままウィルと共に訓練場を後にした。



 風が吹いて、木の葉がひとつ、私の肩に落ちる。

 ふと、胸の奥にぽっかりとした穴が空いたような気がした。あれだけ頑張っていた育児にも、終わりはあるんだと思った。


*** 


 夜になり、城の広間では即位の宴が開かれていた。

 煌びやかな装飾と、華やかな音楽。

 笑顔と祝福の声に包まれた様子を、私はその輪の外から静かに眺めていた。


 あれほど夢にまで見た瞬間なのに――

 なぜだか少し寂しく思えた。


「リカ様、こちらを」

 背後から、ウィルの声がした。

 彼は以前と変わらぬ穏やかな表情で、私に向けてワイングラスを差し出した。

「ありがとう」

 一口だけ飲んで、ほうと息をつく。

「なぜだか、……少しだけ寂しいわ」

「そうでしょうね」

「あなたは平気なの?」

「私は“守る者”です。殿下がもう自らの力で歩くことができるのなら、それで十分です」

 彼の言葉は、どこまでも静かでまっすぐだった。

 それでも、その奥にかすかな痛みを感じたのは気のせいではなかった。


「ねぇ、ウィル」

 私は、小さく口を開く。

「あなたは、これからどうするの?」

「これまで通り、殿下の護衛を続けます。この国が安定するまで、私の務めは終わりません」

「そう……。あなたらしいわね」


 宴の喧騒が、遠くで響いていた。

 私たちの間だけが、ゆるやかに時間から取り残されたようだった。


「リカ様、」

 少しの沈黙の後、ふいに彼が私の名前を呼んだ。

「あなたさまがこの世界に来てくださって、本当によかったと思っています」

「……ありがとう。私も、この世界に呼ばれてよかったと思うわ」

「もう、“帰りたい”とは思わないのですか?」

「思うわ。でも今は、“帰るために生きる”んじゃなくて、“ここで生きた日々を持って帰りたい”と思うの」


 ウィルはわずかに目を細めて、それから、穏やかに微笑んでいた。

「それはきっと、殿下も同じ思いでしょう」




 宴が終わったあと、私はエリアスの部屋を訪ねていた。

 彼は王衣のまま、机に顔を伏せていた。一国の王となっても、私にとってはまだまだただの子どものように見える。

「……寝てしまったのね」

 私は毛布を掛けて、彼の髪をゆっくりと撫でた。


「これまで、よく頑張ってきたね。もう、私なんか必要ないくらいに……」

 そう呟いたとき、彼がゆっくりと顔を上げた。

「必要だよ、リカ」

「えっ?」

「あなたに育ててもらって、本当によかった。母上との記憶はないけれど、私はあなたのことを本当の“母”のように思っているから」

 胸が、熱くなる。

 声が震えて、言葉がうまく出てこなかった。

「ありがとう、エリアス」

「それでも、リカは帰らなくてはならないのでしょう?……あなたの世界に」

「……ええ、いつかはね」


「その時は、笑って見送るよ。リカが笑っていないと、私も安心することができないから」

 彼はそう言って、再び眠りについた。


 その寝顔を見つめながら、私は静かに涙をこぼしていた。



***

 


 ——翌朝。

 空の色が、少し違って見えたような気がした。

 風が光を帯びて、ここがまるで違う世界であるかのように、草木はきらきらと輝いていた。


 時がきたのだと、私は荷物をまとめて部屋をあとにした。

 メアリーは、私のこの先が穏やかなものであるようにと、月草を手に静かに祈りを捧げてくれた。

「どうか、お元気で」

「ありがとう」


 しばらく歩みを進めていくと、ウィルが城門の前に立っていた。

「リカ様」

「……呼ばれてしまったわ」

「……これまで、ありがとうございました」

「ありがとう。不思議と、今はもう怖くはないわ」

 彼は頷き、ゆっくりと右手を差し出した。

 私は、その手を握り返す。

「ウィル」

「あなたさまの穏やかさは、きっとこれからも誰かを癒すことでしょう。たとえ世界が違っていても……」

 珍しく、彼が言い淀む。

「あなたもね。……どうか、元気で」


 手を離した途端に、光が足元から立ちのぼる。

 まるで朝の霧が形を変えたような、柔らかな光が降り注ぐ。


 最後に見えたのは、ウィルの静かな微笑みと遠くで大きく手を振るエリアスの姿だった。



 そして私は、再び光の向こう側へと消えていった。



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