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ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました  作者: 陽花紫


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5/10

日々はゆるやかに

 朝の光が、部屋いっぱいに満ち溢れていた。

 エリアスが寝台の上で寝返りを打ち、小さく寝言をつぶやく。

「リカ、まだねむいよ……」

 私はそっと毛布を掛け直し、額にかかった髪を払ってやった。

「もう、少しだけよ?朝食が冷めてしまったら、ウィルがまた説教に来るわよ」

 そう口にした自分の声は、驚くほどとても穏やかなものだった。

 以前のような、焦りや苛立ちの影はない。それが嬉しいようで、少し怖くもあった。

 

 この頃の一日の流れは、いつも同じだった。

 朝食をとり、勉強の時間、昼の遊び、午後の礼儀作法の稽古。けれどもその“繰り返し”が、今の私には何よりも尊いもののように思えていた。エリアスはすくすくと大きくなっていった。


 王宮の庭は季節の花で満ちていて、午後の風に乗ってハーブの香りが漂う。

 私はその香りを胸いっぱいに吸い込みながら、「生きている」と静かに感じることができるようになっていた。



 ある日、メアリーが新しいハーブを抱えてやってきた。

「リカ様、こちら“月草”です。心を穏やかにする香りと言われています」

「月草、きれいな名前ですね」

「ええ。夜露を受けて咲くので、そのように呼ばれています。怒りや悲しみを吸い取るとも言われているのですよ」

 私は、思わずその花を見つめた。

 淡い青紫の花びらが、そよそよと風に揺れている。かつての私の中にも、こうした静けさがあったのだろうか。


「昔は、なんでも“完璧にやらなきゃ”って思ってたんです」

 花を手にしながら、私はぽつりと口を開いた。

「洗濯物も、料理も、子どものお世話も。少しでも手を抜いたら、母親失格だって……そう思って……」

「母親失格、ですか」

 メアリーが、優しく首をかしげる。

「でも、今は違います。手を抜くのも頼るのも、母親の力の一部なんだって、ようやく思えるようになりました」

 そう伝えると、メアリーは微笑んだ。

「そのように気づくことができるリカ様は、本当に、強い方ですよ……」


 夕暮れ時、エリアスが勉強を終えると、ウィルが訓練場で軽く剣を振っていた。


 相変わらず、彼の動きは正確で無駄がない。

 けれどその姿を見ていると、なぜだか少しだけ寂しさのようなものを感じてしまう。

「ねぇ、ウィル。あなたって、いつもそんなに張り詰めているの?」

 彼は手を止めて、こちらのほうを見た。

「張り詰めていなければ、守るものも守れませんから」

「守るために、息を殺すなんて……。まるで昔の私みたい」

「昔の、ですか?」

「そう。自分を犠牲にしてでも“母”でいようとした。でも、そんなの続くわけないのにね」

 彼は剣を鞘に収めてから、静かにこう言った。

「……リカ様は、変わられた」

「そうかしら?」

「以前のあなたさまは、まるで自らを罰しているかのようでした。今は——誰かを、そして自らを、赦しているように見受けられます」

 その言葉に、胸が震えた。

 赦す——その響きが、胸の奥に深く染みこんだ。


 

 夜、エリアスが寝静まったあと。

 私は机の上に灯したランプの下で、紙を広げた。そこには、幼い娘 美桜みお に宛てた手紙が並んでいる。

 届かないことを知りながらも、エリアスの夜泣きが落ち着いた今、私は密かに毎晩書き続けていたのだ。


 みおへ

 今日も、あなたの代わりに小さな子の髪をとかしてあげました。

 あの子は泣き虫だけど、あなたよりちょっとだけ我慢強いの。

 ママは、やっと笑えるようになってきました。


 娘を思い出すたびに、涙が頬を伝う。それでも、それでも私はペンを置かなかった。


 きっと、ママは帰るわ。

 その時、少しは優しいママになれていたらいいな。


 書き終えると、窓の外には月が出ていた。

 ハーブの香りが、そよ風に乗って部屋に流れ込む。

 私は目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。その香りは、どこか懐かしくて、まるで娘の頬に触れたときの匂いのように感じられた。


***


 ゆっくりと、時が満ちていく。

 焦りも怒りも、もうここにはない。ただ静かに、確かな日々が続いていく。

 その温かさの中で、私は少しずつ自分を取り戻していった。


「リカ様」

 ふいに、ウィルの声がした。

「いつの日か、殿下が大人になられたとき——あなたさまはどうなさるおつもりで?」

「さあ、……。帰れることなら、元の世界に帰りたいわ」

 遠い未来の話に、実感もないままにそう答えると彼は少しだけ笑った。

「きっと、帰れることでしょう。」

「そう言える根拠は?」

「あなたさまは、“帰る場所”を信じているからです」

 ウィルの言葉に、胸の奥があたたかくなる。

 ああ、この人は本当に、真面目で誠実な人なんだ——そう思った。



 私は、窓の外に目をやった。

 青白い月が、静かに空を照らしている。

 その光に照らされながら、小さく呟いた。

「ありがとう、ウィル。あなたと出会えてよかったわ。いつも助けてくれて、ありがとう」


 彼はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに答えた。

「私もです、リカ様」



 その夜、私は夢を見た。

 娘が、笑って手を振っている夢。

「ママ、おかえり!」

 と、あの頃と同じ声で。


 私はその声を胸に抱いて、長い夜を静かに越えていった。




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