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ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました  作者: 陽花紫


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4/10

ウィルとメアリー

 季節がひとつ巡るころには、城の中での暮らしにもようやく慣れてきたと思う。


 朝、鐘の音とともに目を覚まし、エリアスの寝ぐせを直して食事の間に向かう。

 泣いたり、拗ねたり、笑ったり。娘よりも二つ年上のエリアスは、やんちゃ盛りな男の子に成長していた。

 

 ある日の昼下がり、エリアスが庭で木の枝を剣に見立てて遊んでいた。

「みて、みて!ウィルみたいだよ!」

 エリアスは笑いながら、空に向かって剣を振り回す。それを見守るウィルは、珍しく表情を緩めていた。

「殿下、剣は振るものではなく、守るものですよ」

「うーん、むずかしいこというなあ。リカ、ウィルっていつもこうなんだよ!」

「ええ、そうね。真面目すぎて、たまに息が詰まりそうだわ」

 そんな私の言葉に、ウィルは苦い笑みを浮かべた。

 その微笑みはほんの一瞬だったけれど、まるで氷の表面が少しだけ溶けたように見えた。



 その日の夜。

 エリアスを寝かしつけたあと、私はメアリーが淹れてくれたハーブティーを飲んでいた。

 疲労回復と、心を落ち着かせる効果があるというそのお茶は、感情がどうにも抑えきれない時にメアリーが準備してくれたものだった。徐々に飲む頻度は減っていったものの、それでもたまにその味が恋しくなって飲んでしまう。


 隣に座るメアリーが、静かに口を開く。

「……ずいぶんと、落ち着かれましたね。リカ様」

「……そうでしょうか。自分では、まだ余裕があるとは思えないんです」

 正直なところ、このお茶の力に頼らなければ私は倒れていたと思う。それに、メアリーとウィルの助けがなければ、エリアスのお世話も続けられなかったと思う。

「最初のころのあなたさまは、まるで荒れた海のようでした。波が高くて、触れるのも怖いほどの……」

「それは、否定できませんね」

 苦笑しながらも、胸の奥が痛んだ。

 私はずっと、あの夜のことを忘れられずにいた。「ヒスババア」と呼ばれたあの日から、心のどこかが壊れたままだった。


 メアリーはティーカップを見つめながら、柔らかく言った。

「母親というのは、不完全なものです。完璧な母など存在しません。だからこそ、子どもにとって“本当の母”になるのだと私は思います」

「……本当の、母」

「怒り、泣き、悩みながら、それでも手を伸ばす。そういう人こそ、子どもにとっての“安らぎ”になるのですよ」

 私は、思わず返す言葉を失った。

 その言葉が、あまりにもまっすぐで、痛いほどだったから。


 しばらく沈黙が流れたあとに、メアリーが小さく笑った。

「それにウィルも、リカ様には感謝してもしきれないと言っていましたよ」

「えっ?」

「あの子は不器用ですが、誠実です。あなたさまがいらっしゃってから、殿下が笑うことが増えたとも言っていました」

 驚いて、息をのんだ。

 あのウィルが、そんなことを――。


***


 翌朝、廊下でウィルとすれ違った。

 いつものように背筋を伸ばし、無表情で。

 それでも、彼の歩幅がわずかに緩んだように見えた。

「おはようございます、リカ様」

「おはようございます。……あの、昨日メアリーから聞きました。私のことで、エリアスの笑顔が増えたって」

 彼は少しだけ驚いたように目を丸くして、ゆっくりと瞬きをした。

「ええ。あれは……、あなたのその声のせいでしょう」

「声?」

「柔らかくて、あたたかい声です。子どもはそういう音に安心する。それは……どんな魔法よりも強い」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 誰かに「あなたの声は優しい」と言われたのは、いつ以来だろう。

 もしかしたら、娘が生まれる前のことかもしれない。


「……ありがとう、ウィル。あなたって、意外と優しいのね」

 思わずそう微笑めば、彼は首をかしげていた。

「意外と、ですか」

「ええ。もう少し柔らかくてもいいと思うわ」

「……検討しておきます」

 そう言って、彼はほんの少しだけ笑った。

 それは氷のような笑みではなく、人間らしい、あたたかな微笑みだった。

 



 その夜、私は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについていた。

 夢の中で、娘は草の上を走っていた。

「ママ、こっち!」

 と呼ぶ声が、風に揺れる。

 追いかけようとすると、背後から小さな手がそっと私の手を握る。

 振り返ると、それはエリアスだった。

 彼もまた、笑っていた。


 目が覚めたとき、胸の奥が静かに温まっていた。

 私は、ようやく気づいたのだ。この世界でも、私は“母”でいられるのだと。

 誰かを守り、誰かを育てることが、自分自身をも癒していくのだと。


 ――メアリーの言葉が胸に残る。

「母親は、不完全だからこそ、美しいのですよ」


 私はその言葉を何度も繰り返しながら、朝の光の中へと歩いていった。



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