ウィルとメアリー
季節がひとつ巡るころには、城の中での暮らしにもようやく慣れてきたと思う。
朝、鐘の音とともに目を覚まし、エリアスの寝ぐせを直して食事の間に向かう。
泣いたり、拗ねたり、笑ったり。娘よりも二つ年上のエリアスは、やんちゃ盛りな男の子に成長していた。
ある日の昼下がり、エリアスが庭で木の枝を剣に見立てて遊んでいた。
「みて、みて!ウィルみたいだよ!」
エリアスは笑いながら、空に向かって剣を振り回す。それを見守るウィルは、珍しく表情を緩めていた。
「殿下、剣は振るものではなく、守るものですよ」
「うーん、むずかしいこというなあ。リカ、ウィルっていつもこうなんだよ!」
「ええ、そうね。真面目すぎて、たまに息が詰まりそうだわ」
そんな私の言葉に、ウィルは苦い笑みを浮かべた。
その微笑みはほんの一瞬だったけれど、まるで氷の表面が少しだけ溶けたように見えた。
その日の夜。
エリアスを寝かしつけたあと、私はメアリーが淹れてくれたハーブティーを飲んでいた。
疲労回復と、心を落ち着かせる効果があるというそのお茶は、感情がどうにも抑えきれない時にメアリーが準備してくれたものだった。徐々に飲む頻度は減っていったものの、それでもたまにその味が恋しくなって飲んでしまう。
隣に座るメアリーが、静かに口を開く。
「……ずいぶんと、落ち着かれましたね。リカ様」
「……そうでしょうか。自分では、まだ余裕があるとは思えないんです」
正直なところ、このお茶の力に頼らなければ私は倒れていたと思う。それに、メアリーとウィルの助けがなければ、エリアスのお世話も続けられなかったと思う。
「最初のころのあなたさまは、まるで荒れた海のようでした。波が高くて、触れるのも怖いほどの……」
「それは、否定できませんね」
苦笑しながらも、胸の奥が痛んだ。
私はずっと、あの夜のことを忘れられずにいた。「ヒスババア」と呼ばれたあの日から、心のどこかが壊れたままだった。
メアリーはティーカップを見つめながら、柔らかく言った。
「母親というのは、不完全なものです。完璧な母など存在しません。だからこそ、子どもにとって“本当の母”になるのだと私は思います」
「……本当の、母」
「怒り、泣き、悩みながら、それでも手を伸ばす。そういう人こそ、子どもにとっての“安らぎ”になるのですよ」
私は、思わず返す言葉を失った。
その言葉が、あまりにもまっすぐで、痛いほどだったから。
しばらく沈黙が流れたあとに、メアリーが小さく笑った。
「それにウィルも、リカ様には感謝してもしきれないと言っていましたよ」
「えっ?」
「あの子は不器用ですが、誠実です。あなたさまがいらっしゃってから、殿下が笑うことが増えたとも言っていました」
驚いて、息をのんだ。
あのウィルが、そんなことを――。
***
翌朝、廊下でウィルとすれ違った。
いつものように背筋を伸ばし、無表情で。
それでも、彼の歩幅がわずかに緩んだように見えた。
「おはようございます、リカ様」
「おはようございます。……あの、昨日メアリーから聞きました。私のことで、エリアスの笑顔が増えたって」
彼は少しだけ驚いたように目を丸くして、ゆっくりと瞬きをした。
「ええ。あれは……、あなたのその声のせいでしょう」
「声?」
「柔らかくて、あたたかい声です。子どもはそういう音に安心する。それは……どんな魔法よりも強い」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
誰かに「あなたの声は優しい」と言われたのは、いつ以来だろう。
もしかしたら、娘が生まれる前のことかもしれない。
「……ありがとう、ウィル。あなたって、意外と優しいのね」
思わずそう微笑めば、彼は首をかしげていた。
「意外と、ですか」
「ええ。もう少し柔らかくてもいいと思うわ」
「……検討しておきます」
そう言って、彼はほんの少しだけ笑った。
それは氷のような笑みではなく、人間らしい、あたたかな微笑みだった。
その夜、私は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについていた。
夢の中で、娘は草の上を走っていた。
「ママ、こっち!」
と呼ぶ声が、風に揺れる。
追いかけようとすると、背後から小さな手がそっと私の手を握る。
振り返ると、それはエリアスだった。
彼もまた、笑っていた。
目が覚めたとき、胸の奥が静かに温まっていた。
私は、ようやく気づいたのだ。この世界でも、私は“母”でいられるのだと。
誰かを守り、誰かを育てることが、自分自身をも癒していくのだと。
――メアリーの言葉が胸に残る。
「母親は、不完全だからこそ、美しいのですよ」
私はその言葉を何度も繰り返しながら、朝の光の中へと歩いていった。




