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ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました  作者: 陽花紫


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10/10

番外編 夢の中で

 目覚めると、そこは夢とも現実ともつかないような場所だった。

 光が柔らかく揺れて、空気は驚くほど静かだった。


 境界のない世界。

 けれども、なぜだか懐かしいような気がした。

「リカ様」

 その声を聞いた瞬間に、胸が強く締めつけられた。

 振り向くと、そこにはウィルが立っていた。


 あの頃よりもいくらか大人びていたけれど、相変わらずな佇まいをしていた。

 髪は整い、瞳には深い静けさが宿っている。

 年月を経てもなお、どこか遠くを見てきた人のような余裕と落ち着きがあった。


 彼は記憶の中よりもずっと穏やかで、それでいて美しかった。

「……ウィル」

 その名前を口にしただけで、思わず涙が滲む。

「これは、夢なのでしょうか」

「いいえ、夢じゃないわ。きっと」

「……あなたさまの声を、追い求めていました」

「私も。あなたの声を、ずっと夢で探していたわ」

 彼は、少しだけ笑った。

 懐かしい微笑みだった。

 あのころ、疲れ果てた私の心を何度も救ってくれた優しい笑顔だった。


「リカ様は、お変わりのない様子で……」

「あなたは……。少し、静かになったわ」

「そう見えるだけだですよ」

 交わす言葉には、いくつもの長い時が滲んでいた。


 

 沈黙が落ちる。


 それなのに、不思議と息苦しさはなかった。

 彼がそばにいるだけで、胸の奥があたたかくなる。言葉さえもいらない、そんな穏やかな雰囲気のなかで私たちはただ見つめ合っていた。


「幸せに、暮らしていらっしゃいますか?」

 ふいに問われて、私は少し迷ってからうなずいた。

「ええ、とても。……娘も、あの時のエリアスくらいに大きく成長したわ。穏やかな日々を過ごしていて、でも……」

「でも?」

「ときどき、思い出すのよ。あなたたちのこと。あの頃の自分が、もう少しだけ誰かを信じていられたら――って」


 ウィルは、静かに目を伏せた。

 そして再び顔を上げたとき、その瞳には微かな光があった。

「あなたさまを忘れたことは、一度もありませんでした」

 その一言が、夢の中の空気を変えた。

 高鳴る胸を、抑えきれなかった。彼の声は変わらず静かで、けれども確かに熱を帯びていた。


 私は言葉を探したけれど、何も言うことができなかった。

 ただ、彼を見つめ返すことしかできなかった。


 次の瞬間、彼が一歩私に向かって近づいた。

 距離が、縮まる。

 心臓の鼓動が、夢の中なのにやけに大きくリアルに響いていた。

「……これは、私のなかの、都合のいい夢だと思っています」

 彼が、小さく呟いた。

「だからこそ、お許しください」

 そう言って、彼は私の頬に触れた。

 彼の指先は温かく、確かにそこに彼は存在していた。


 ゆっくりと、彼の顔が近づいてくる。

 私は受け入れるように、そっと目を閉じた。


 柔らかな光が差し込むような感覚の中で、唇が触れ合った。

 音のない世界で、たったひとつの現実がそこにはあった。


 痛みも悲しみもない、ただ静かな幸福だけがそこにはあったのだ。


 離れたときに、ウィルは何も言わなかった。

 けれど、その沈黙がすべてを語っていた。

 私もまた、何も言わなかった。この想いを言葉にすれば、すべてが壊れてしまいそうだったから。



*** 


 次に目を開けたとき、私は自分の寝室にいた。

 隣で、美桜が眠っている。

 その小さな手を握りしめながら、私はまだ唇に残るぬくもりを感じていた。


 すべては、ただの夢だった。

 けれども確かに、あの瞬間は存在したんだと私は信じている。


 誰にも語れない記憶。

 時を越えて夢の中で交わされた、たった一度の口づけ。


 私は、静かに目を閉じた。

 心の中で、そっと彼の名前を呼んだ。この声が、どこか遠くに届くよう願いながら。



END




これにてすべて完結です。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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